投票日前の二題。

中村修二氏、特許法改正反対

 NHK《時論・公論》で、特許法の改訂で、社員の発明は、その権利が会社・企業に帰属する方向に改訂される、というトピックを扱っていた。
 折りしもノーベル賞受賞でスポットライトを浴びている青色LED開発者・中村修二さんが、発明の権利に関して所属していた企業と対立していたことが報じられている。

 政・財界からすれば、こういった‘過剰に権利を主張する(かに見える)’社内研究者は、厄介な存在であろう。
 この問題に関しては、いろいろな意見があると思われるが、法改正に踏み切ったところには、明らかに、現政権が財界の意思を尊重する、という姿勢であることを明示している。

 思うに、安倍政権はNHKに選挙直前にこういうトピックを扱ってほしくはなかっただろう、と推測(邪推)している。

 加えて、発明・特許の帰属がどうなるにせよ、弱い立場の個人が、企業との間で不利になる‥‥場合によっては、発明・開発に関する権利が認められないというだけではく、一端企業に利用された開発・発明にメリットがなかったとして民事あるいは刑事で告訴されたり、というような、結果的に個人が‘陥れられる’ような事例に関する注意も喚起されなければならないと思う ― ネット上で印象に残ったのは、こちらのブログ記事に見える、‘小保方さんではない事例’だ。

 昨今かまびすしい研究者の不正防止教育の重要性であるが、ここには、研究者個人が自らの権利をどう守るか、という「教育」もセットでなければならない。
 しかし、それは、「企業」社会=財界にとってはやってほしくないことであろうから、積極的にやっていることが知れた大学・大学院は就職面で差別されるということも危惧される。

吉野家、牛丼値上げ

 もうひとつ、安倍自民党が選挙直前にやってほしくなかったと推測できることこと‥‥は、吉野家の牛丼値上げ発表

 リンクした朝日の記事を見ると、じつは以前も牛丼が380円だった期間はかなりあるのである(松屋と違い、味噌汁は別売であることには注意)。
 ‘それでも払えない私’が言うのはおかしいが、一杯380円の牛丼というのは、そう高くない、どころか、非正規でガンガン働かざるをえないバイトさんたちのお蔭で、安い外食ではある。

 それでも、私個人はもう何ヶ月も外で牛丼・牛めしは食べていないし、80円の値上げで、弁当にシフトするサラリーマンはそこそこいるのでは、と思う。
 気になるのは、今後の‘空前の’円安潮流で、牛丼チェーンの値上げだけでも、これだけで終わりそうにないところだ。

「アベノミクス」という「語」

Prime Minister!

 解散総選挙。得意満面欣喜雀躍の安倍総裁率いる自由民主党である。
 完々璧々の一強多弱状態で、自分たちの政策がどうの、は一切おかまいなく、一斉攻撃、機銃掃射、敵全員抹殺‥‥とうまくいくのか? これが行きそうなのである。

 GDP対前期成長率年率換算 −1.6%で“民意を問う”。
 GDPのマイナス成長については、世の‘エコノミスト’という業種の人たちは、個人消費の落ち込みはあまり言いたくなく、もっぱら「誤算」の主因を、企業の在庫減に求めている、とか。

 経済は全くわからない私には、判断できかねるが、そもそも「エコノミスト」というような職種の人間には、日々の生活が困窮している層はもちろん、低所得層全般の生活感覚なんかわかるはずもないのである。

 それでも、今度の選挙、連立与党以外に「マトモ」な選択肢はありえないと大多数の国民が判断するように思う。
 民主党は、いちど現実に政権担当した時の、あまりの無惨さを忘れている人はいまいから、積極的支持はまずありえない。
 「みんな…」を標榜した野党は、人望のないリーダーの気合いだけを戴いて、解散と同時にみごとに空中分解した。

 ‘社・共’は、単純にカウンターバランスになりうるだけであり、現実の政治運営に携われば民主党よりひどい混乱を引き起こすこと請け合い‥‥こういう言い方はしたくないけれど、「政治」の世界で高額の収入を得ている人びとは、その感覚を脱することは不可能なのである。

 これは、分野が異なるが、かの「朝日新聞」現象に否みようもなく顕著に現われてしまった。
 あの「朝日新聞」の所業で、わが国の「リベラル」がどれだけ傷ついたか知れない。大新聞の上層部という形で「生活している」と、自分たちの「メシの食い方」で、人びとのそれまでの努力をどれほど毀損しようと、遠慮や反省というものは生じようもないのである。

 ‥‥てな議論をしてもあまり果実はない。
 本エントリでは、「アベノミクス」という単語について考えてみたい。

 「アベノミクス」は、安倍晋三の「Abe」と「economics」を合体させた、“安倍晋三の経済政策”という形で発案された造語、ということになっている。
 元来、「economy=経済」という英語(欧語)は、ギリシア語で家庭を意味し、ひいては「家計」につながるオイコス oikosと、秩序・法律を意味するノモス nomosが合体してできた単語である。
 しかしてエコノミー(≒エコノミクス)は、「家計のマネジメント法」というような形で、経済の学というように訳される。

 で‥‥この語源から、こんどは「アベノミクス」という語の意味を考えた場合、「安倍晋三の‘経済’政策」であるというよりも、「Abe+nomos」、すなわち、
 「私、安倍晋三が法・秩序である」
 という宣言だと、まさに読めるのである

 安倍首相の改憲をゴールとした、モノスゴい Führer(=指導者)ぶりには、全く尋常でない空気を感じる。が、これこそが「アベノミクス」なのだ!

 新憲法草案には、障害を持った人びとや、環境への言及などがあるにはある。
 安倍氏のサイトの改憲見解のページには、現憲法に対して、「当時は想定できなかった環境権、個人のプライバシー保護の観点から生まれてきた権利などが盛り込まれていません」という批判を記している。

 「環境権」! これを大切にし、実現に努めるような政党が永く政権の座にあった国なら、水俣病・米水爆実験被曝・ハンセン病・アスベストといった悲劇的な問題が、これほど長きにわたって解決を妨げられ続けるということが、ありえただろうか?

 いや、こんな議論もまた果実をもたらすまい。完全無欠の「一強多弱」である。

「ペインボディ」とイスラーム国

 新しい‘お助け本’として、エックハルト・トールの『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる(The Power of Now)』をいちど通して読み、また最初からゆっくり読んでいる。

 ‘スピリチュアル’っぽい要素はあまりなく、きわめてシンプルな‘生き方・考え方指南書’といった趣きがある。
 ともかく骨子は「今に在れ」というひとつことに尽き、ときおり臨済などを引用するが、その『臨済録』の「随処作主、立処皆真(随処に主と作(な)れば、立処みな真なり」と言うのなどに即、通じる(岩波文庫で積ン読だった『臨済録』も、通勤の車中でほぼ読んだ)。

 反対に、彼の教えで、人間を不幸に縛り付ける悪しきファクターは ― 一人歩きする時間観念や、その元となる思考、ネガティヴな思考が身体に共鳴した感情、といったものだ。

 その中でも、過去からの不快な感情が凝集して実体化したような感情を、「ペインボディ Painbody」と称して、これを見極めて意識の光に曝すことで、これの力が消失し、影響から解放される、と言う。

 『さとり…』を読んで、その言説がじつに全(まっと)うであり、実践の手引きとしても哲学的思惟への示唆としてもたいへん有益だと思ったと同時に、私自身の内面に蓄積され、ある意味マグマのように‘活きいき’と脈打つ「ペインボディ」のエナジーの大きさに、改めて強烈に気づいた。

 このようなペインボディが強烈に作動すれば、通り魔のような犯罪は容易に起きるだろう。
 秋葉原で通り魔を実行したKなどは、まさに全人格を自身のペインボディに明け渡した実例だ。

 私が、自分のペインボディの大きさに驚き、戦くというのも、E.トールのいうように「いまに在る」べくいくら努めても、過去に関するネガティヴな思い=ペインボディが、常に‘活線’の状態で意識のすぐそばにあるということなのである。

 不用意に触れさえしなければ、手の近くに400〜800Vの電圧のかかった活線があっても、それだけで感電はしない。
 しかし常にそのような状態で暮らすというのは、なかなかのストレスである。

 E.トールがいう「強烈にいまに在る」ことは、ちょうど高圧アンプを調整する際に手袋をするようなことになるのだろうけれど、手袋と違って気が緩めば‘感電’するのである。

 視点を変えると、この「ペインボディ」はしばしば集合的 collectiveなものになりうる。
 その典型が「イスラーム国」だ。

 メディアがイスラーム原理主義テロリストの犯行を伝える時、「イスラームそのものは平和的で、決してテロを是とするものではない」という、ある種免罪符的コメントを付加することが多いけれども、イスラーム国の所業は、そういったコメントの浅薄さをみごとに嘲うごとく、残虐だ。

 「イスラームそのものは平和的」と糊塗すればするほど、「イスラームの中の残虐性」が集合的に凝集・実体化してイスラーム国をますます強めていっている。

 ユダヤ・キリスト教、ヘレニズム、近代的民主主義の伝統が息づく欧米社会の中から、イスラーム過激主義に呼応する若者がなぜこんなに輩出するのか。
 NHKの『クローズアップ現代』や『ニュースWEB』で呼ばれるゲストが行なう説明は、ほとんど「彼らの巧みなネット利用宣伝」に終始している。

 聞いていて、こちらの知識不足を棚に上げてしまうけれど、ほんとうに、救いようがないほど浅薄だ。
 こうした専門家たちには、心理学やイスラーム思想史の、知識はともかく、そういったファクターの考察が必要だという認識そのものが、根底から欠如しているように感じる。

 イスラーム研究の権威だった井筒俊彦氏の研究は、研究対象への好意があるのは当然としても、どうしても哲学思想面に重きを置き、政治的考察に乏しい嫌いはあるような気がする。

 そんな井筒氏の著書ではあるが、イスラームのいわゆる宗教指導者、ウラマーについて語る部分で以下のように言っている。
 「ウラマーの政治的権力は実に絶大なものであります。なぜなら、いったん異端を宣告されたが最後、その人、あるいはそのグループは完全にイスラーム共同体から締め出されてしまう。‥‥(中略)‥‥「イスラームの敵」になったものの刑は死刑、全財産没収。個人の場合はもちろんそのまま死刑。異端宣告を受けたためにどれほど多くの人が刑場に消えていったか、数えきれません。」(『イスラーム文化』岩波文庫(初出版1981)、48〜49頁)

 イスラームのオーソドキシーは、ある部分、明瞭に暴力によって決定・継承されてきた ― 他の一神教にもその要素がなかったわけではないが ― という史実を覆い隠してよいはずはなく、むしろ現代のムスリムに対して、この部分の総括をどう求めてゆくのかが、非ムスリムの責務ではないかとも思う。

 片倉もとこ氏の『イスラームの日常世界』(岩波新書、1991年)は、民族学者としてのプロの目で、しかもくだけた日常的視点でイスラームの生活実態を描いている好著(ただし私は拾い読みていど)だが、その終わりのほうで、イスラーム原理主義の動向調査をする英国人のことばを伝えている:
 「恐ろしいと思うのは、大事件をおこすテロ集団の突発的な行動ではない。むしろふつうの家庭に育つ中学や高校の生徒たちが、ある日突然のようにイスラーム服に身をつつみ、熱心なムスリムになる。そして西洋服の母親や酒を飲む父親を批判しはじめるという現象が、あちこちの家庭でおこっているということだ。マスコミにも報道されないうちにジワーッとくる日常的変化だ。若い世代に浸透して、ジワジワと進行しつつある地殻変動は、世間をさわがす表立った“事件”よりも、恐ろしい」(216頁)

 こういったところを掘り下げる視点を、テレビにおけるイスラーム・テロの報道では全くといっていいほど見たことがない。
 もっとも、本エントリーもそういうところを掘り下げる意図も、私の知識もないのだが、そうこうしているうちに、E.トールのいう「ペインボディ」が、ほんとうに集合的なものとして、実体化したというのが実感だ。

 イスラームの中の最も暗黒な部分と、現代世界の若者の中の実体化までせざるをえなくなるほど膨張した「ペインボディ」が、引き合い、融合・共鳴して「イスラーム国」を日々強力なものにしていっているように見える。

 こんな集団に、よりによって参加しようという若者がわが国からも出てきた。
 とんでもない、と言わない人はいないし、私もそうだけれど、「とんでもない」と言う向きの中には、こういう心境に至る者の気持ちには一切目を向けていない人もいるのではないかと思う ― もちろん、そうでない人もいることもわかるが。

 現在、高齢化しても反戦の意思を何らかの形で強く表わしている方たちは、何といってもその動機が実際の戦争被害であることが多い。
 まことに皮肉で、かつ決定的に悲劇的なことだが、戦争の恐ろしさを真に「知る」には、戦争被害を体験するしかないのだ。

 実際にイスラーム国に参加して、予想とは全く違う「戦争」を体験して、そこでトラウマを得る若者が増えれば、それはそれで、恐ろしいプロセスではあるが、自身の、あるいは人類普遍の「ペインボディ」に気づく可能性は大いにある。

 もっとも加えて痛ましいのは、気づいたとしてもそこから「癒える」ことは不可能かもしれないところだ。
 そうではあっても、それは「魂の破壊」とともに、最後のその若者の「気づき」になりえる‥‥いや、これは私の「ペインボディ」がこんな残酷なことを言っているのかもしれないが。

 イスラーム国の真っ黒な「国旗」は、内包するペインボディの深さを象徴している。
 こうした共同体は、内部で日常的に相互殺戮も行なわれているはずで、そういったところを参加者が味わうことも、かつての連合赤軍などのさらにスケールアップしたものになるだろうし、まことに悲惨だが、彼らはそれを味わっていくしかない。

 こうした暴力支配の要素は、そもそも井筒氏が述べたように、イスラーム共同体に歴史的に存することではあったし、北朝鮮なども数十年にわたって変わらないので、ずっとこのまま成長し続けるかもしれないが、あまりの暴力過剰支配は、内部崩壊を来たさないとも限らない。


 いっぽうで、エボラ出血熱のような、自然からの脅威が恐ろしい勢いで人類に迫ってきている。
 ニュースを見ていると、最も恐ろしいものは「外」にあって、「外」に対してどのような防御をするべきかと言うばかりであるが、内面の「ペインボディ」は、真に恐るべきものだと思う。

大学非常勤講師の三重苦…。

 貧困、格差、非正規、etc. ‥‥といったあたりの単語でググっていると、もう私には過去のものとなった‘職業’にかんして記事ひとつ発見。

Yahoo!ニュース記事

 また Yahoo!ニュースだが、《大学非常勤講師の三重苦=奨学金ローン地獄・高学歴ワーキングプア・人間破壊と生命の危機》

 「首都圏大学非常勤講師組合」の松村比奈子委員長へのインタビューという形で、最初は、早稲田大学の非常勤講師就業規則に関して、刑事告発がされた、という記事から始まり、上にリンク・紹介したページは続きになる。

 個別早稲田の問題は、重要だろうが個人的にはあまり興味を持てず ― ただし、雇用条件の決定に関わる選挙が、入試時期に行なわれたなど、裏事情が見え過ぎるが ― インタビュー②のほうは、見て「ふんふん」であった。

 見だし画像に「平均年収306万円!」とある。私が非常勤になって、年収が300万円あったときが何年あっただろうか?
 もちろん、ここで松村氏が述べているのは、専任教員に伍する能力・業績があり、専門研究を続けてゆくという意思のある人たちのことであり、私のような、博士学位も取らず(取れず)、研究もいいかげんな者は、現状の私のように塾・予備校の低時給労働者に成りさがった上、仕事の継続もままならない境遇に陥って当然ともいえる。

 「非常勤講師の三重苦――過去・現在・将来」とまとめているのは、なるほど、である。
 借りた奨学金の返済、現在の低収入、将来の不安、と、これは大学‘非常勤’を辞めた私にものしかかっている。

 松村氏は、さいごに「非正規雇用」そのものの「非人間性」を訴えている。
 ここは、「大学教員」という枠組での発言なので、他の非正規職にも、松村さんが同じ見解を示すかどうかは、ちょっとわからない。
 大学教員・研究職となると、学会への参加や、研究機関での調査などで資格が必要であり、その点は市井の「非正規職」とは異なる。

 「家族のセーフティーネットもなく生命の危機にさらされる非常勤講師」‥‥ふむ〜。
 読んでいて気づいたのだが、まさに今の私が、「生命の危機にさらされる」状態なのである。それが、もう15年、なのである。

 ふむ〜、そうか。ここまで困窮化して身に沁みてきたけれど、ずっと「生命の危機」だったのだ。いや、月給+賞与+(なけなしの)退職金のあった任期制職時代でさえ、‘その時だけ’なのだから、同じ状態だったわけだ。

 「非常勤講師で家族がいなくて病気になってしまったら現実の問題として生存が危うくなる。」
 私も、です。塾・予備校講師も同様だが、そこは記事の視野に、ない。
 そうだったのだ‥‥私など、すぐ生存が危うくなってしかるべき存在だったのである。

 松村氏は、教育への国の支出の貧困がいちばん問題だとするが、ここに対しては反論・批判からさらには嘲罵もあるだろう。

 しかし、以前にも書いたが、塾から大学まで、子どもたちの学力伸張支援にかかわる人間の多くが「非正規」の不安定・低収入職でまかなわれていることは、私は日本の文化や技術水準に、いつか大きな弊害をもたらすことになると思う。

 他方で、専任の小・中・高校教員の雑務が驚異的に多いことも指摘される。
 つまり、教育に関わる人たちが、「シンドくて、報われなくて当然」と思われている‘文化’がある。

 別のサイトで、《日本の子供の幸福度 総合6位 貧困率は深刻化》を見た。

Huffpost記事

 「日本は「教育」と「日常生活上のリスクの低さ」の項目では1位となったが、「健康と安全」では16位、「物質的な豊かさ」は21位と、中位から下位に位置づけられた」という結果だそうで、総合6位というのは、いいほうなんじゃない? という印象ではある。

 「日本は物が豊かだが…」という紋切り型の表現で済ませているうちに、子どもたちの「物質的な豊かさ」は世界で21位になってしまっていた。
 「教育」が1位、というのは、ちょっと基準がどんなものか、疑問を持たないでもない。
 1位、とある種の客観的評価で評価されたことはそうなのだろうが、「教育=1位」と、他の項目が連動しない。

 またもや、記事ページへのコメントを突っつきたくなる(コメントは、ページを開いてすぐはDLされないので注意)。
 ひとりの方が、「物質的豊かさが下位で教育が上位というのは、子どもにとって希望が持てる状況だと思います。‥‥この教育を受けた子どもたちが大人になる未来は明るいと思います」と書いている。

 最近の日本は、学童の学力が低下しているという警告が常で、そのテコ入れを云々する人たちが多い。
 それでも「1位」。かつては、もっと「超-1位」のクオリティだったではないか!
 だいじなことは、その教育を受けた大人たちが、格差の中でほんとうには幸せではない就労生活を送り、不機嫌な顔をして電車に乗っている、そんな今の日本国民であるということだ。

 ハイ・クオリティの教育であったはずが、大洋と大空に放射性物質をいっぱい撒き散らす文化を築いた。
 「この教育を受けた子どもたちが大人になる未来は明るいと思います」という、その‘心情’は理解できるが、そこにはまた、無思考が焼き付いている。

滋賀県知事選報道、その他…。

 ‥‥これは、私のバイアスのかかった感触から言うのだが‥‥

 先日の滋賀県知事選挙で、自民・公明・維新の会の推す候補が、嘉田前知事の後継を訴える候補に敗れたことの報道が、テレビニュースでの露出において、ちょっと異様なほど少なかったような‘気がする’。
 週明け月曜の各ニュース番組とも、「昨日のニュースの一つ…」とでもいうように軽く扱い、できれば視聴者に伝えたくないな、といわんばかりの雰囲気だったような。

 さすがにNHKの《時論・公論》では取り上げたが、直前の《ニュースWEB》ではほとんど触れなかったのでは?

滋賀県知事選挙

 いっや、ヘンだ。ヘンすぎる。安倍政権のご機嫌に逆らうようなことは一切するまい、というような雰囲気が見え見えである。

 ニュースや報道バラエティにとって、昨今、これまたヘンなオジサンたちが全国で続出しているのは、もうありがたくてしようがない話だろう。

藤原容疑者、野々村元県議

 とくに女児誘拐監禁犯などいじりたい放題で、いじっていれば視聴率を稼ぎつつ時間が潰せる。

 もっとも彼らは彼らで、危険極まりない、あるいはトンデモな不道徳漢であることは間違いない。
 が、有権者数110万人、投票総数55万票という大勢の民衆の意思の選択は軽くスルーし、突出したヘンなやつの報道にはめちゃくちゃ血道を上げるという姿勢は、えらくオカシく感じられる。

 ‥‥まあ、私個としては、トンデモなビヘイヴィアをやらかし続けても、高額の歳費を得る選良というのも、また、どんな仕事をしていたかわからない誘拐犯が、1,000万円もかけて立派な自宅の改装をしていた、なんていうのも、彼らよりはそうとうマトモだと思う(あれ?)私が、もう死にかけているのと対比して、全く不条理に感じることではある。

 誘拐犯、49歳。号泣元県議、47歳。みんなええ歳である ― 佐村河内守氏も同世代!

 号泣県議、野々村クンのほうだが、彼がすぐさま兵庫県議会から刑事告発されたのは、明らかに彼が大政党に属していなかったからだ。
 自民党所属だったら、東京都議会のヤジ調査の件のように、様相は違っていただろう。
 ちなみに彼が卒業している北野高校は、関西では知る人ぞ知る名門進学校である。

ハリポタと英国生活保護

 閑話休題。
 「ハリー・ポッター」シリーズの作者、J.K.ローリングが、生活保護を受給しながら作品を書いていたことが知られるが、このことに関して、わが国と英国の福祉を論じた記事が、Yahoo!ニュースにあった。

 内容は見ていただくとして、記事へのコメントが落胆もの。
 ここのコメントは、Yhaoo! ‘JAPAN’ IDではログインできないので、私は書き込めないのだが‥‥

 まずひとりが、「駄文」と切り棄てている。
 次に、「釣本 直紀」という人物 ― この名前/HNは他でも見かける ― が、さも事情を知って記事の浅薄さを批判するように、データを多くあげて、記事中の研究者の言説を「空想」という。

 記事中、イギリスでは昨今のわが国のような「生活保護(受給)バッシング」は、ないという。
 これに対して、「釣本」氏は、「これは嘘だ」という。

 「釣本」氏が言うように、キャメロン首相が生活保護の抑制に乗り出していることは事実で、「英国の生活保護制度は「本来の道を外れ、ライフスタイルにおける選択肢の1つと化している」」と言って削減に着手(昨年4月)したそうだ。

 イギリスであっても、納税者の視点から、生活保護受給への疑念・不満が起こるのは、ある意味あたりまえの話ではないだろうか。
 記事中の研究者が、イギリス人は福祉に理解が深いから、生活保護を湯水のごとく支給してもだれも不満を感じない、という議論をしているというなら、これは読解力ゼロ、かつ無思考である。

 問題は、その前提になる支給条件や請求〜支給実態の現状と、さらにその根にある‘理念’なのである。
 唐鎌氏の指摘でとくに重要なのは、「福祉は、特定の対象者だけを救う「選別主義」ではなく「普遍主義」にする必要がある」というところ。
 コメント投稿者は、いずれもこのことを全く理解していないだけでなく、読んでいない。

 『ハリー・ポッター』がどうたら、という話は、むしろ刺身のツマであって、その点で唐鎌氏がこのエピソードを使ったのは、「釣本」氏がいうように、ちょっとミスリーディングでもある。
 J.K.ローリングが生活保護を受給していたことを不快に思うイギリス人は一人もいない、などと思うほどアホな人はどこにもいないだろう。

 しかし、こうした「理念」面には、わが国の一般人は、かなり高い教育を受けた人でも全然思いを致さないほど無思考なのだな、と実感して、ほとほと情けなくなった。

松屋が、ガラガラ…。

 いっや〜、シンドい~~;。シンド過ぎ。
 先週、なんとか3件めのハローワーク紹介先の面接にこぎつけることができ、先方も当方もフランクに話し合い、じつにいい感触だった‥‥時給は低い~~が。

 書いているように、今年は仕事がガタ減りで早く帰宅する日がほとんどだ。
 今まで午後11時前に駅を出ていたものが、午後9時過ぎに改札を出ている。

 そこで駅前の《松屋》の店内を覗くと、ガッラガラである
 夕食には遅い時間帯でも、お腹を空かせた若い勤労者が牛めしやカレーをかっこんでいくのが松屋の日常‥‥だったのが、4月以降ガッラガラな日が多い。
 土曜日の21時40分ごろ通った時はそこそこ入っていたが、以前はもっとずっと混んでおり、最寄り駅前の店舗は、それで広い店舗に乗り換えたのだったが…。

 今の私の状況では、松屋の定食などとても食べられるものではない。せいぜい370円の〈オリジナル・カレー〉が精一杯だが、それだとレトルト・カレーのほうが安くて合理的だ。

 このところ、有効求人倍率が十数年ぶりに急上昇したことがニュースで喧伝されている。
 外食産業中心に‘人手不足’によるトラブルもいささか‘喧伝演出’っぽく報道されていて、〈松屋〉と同じく和食ファストフードの〈すき家〉で、店舗クルーの退職などによる閉店や一時閉鎖が起きているのはほんとうだそうだ。

 地元の〈松屋〉の閑散ぶりとは対照的に、ビジネス街の和食ファストフード・チェーンの客は増えているのかもしれない。

 思うに、これまで〈大戸屋〉や〈やよい軒〉を利用していた層が、消費増税後のプライスアップと、実際の収入は決して増えてこない現実から〈松屋〉や〈すき家〉に移ってきた。
 他方、私の地元のようなところは、帰宅途中の客が利用していたケースが多く、そういった人たちは、〈松屋〉ですら外食はせずに、家に帰って自炊、あるいは「中食」という形で食事をするようになったのではないかと ― 私がそうだから、ということもあるが ― 推測する。

 有効求人倍率報道に関して、こちらなどが批判しているように、実際に成約していなのは、「採用する気がない求人」が多いからだ、という。

 そして、〈すき家〉の場合のように、過酷な現場で時給労働してくれる非正規ばかり求める求人がいっぱい出ても、これも求人倍率を上げることになる。

 そういうことなのである ―。
 企業は、低時給・非正規・高密度労働なら、いっくらでも働きに来てほしいのである。

 上記リンクは、日経新聞記事の執筆姿勢について、「中身の分析を全くせず、何のチェック機能も果たさない「政府の広報誌」に成り下がっている」、「「人手不足社会」を必死にアピールする政策当局と日本を代表する経済紙。その根底にあるのは、現実には程遠い「経済の好循環」の演出であることは想像に難くありません」という。あまり筆鋒が鋭くない感じはするが、こういうことだ。

あの件は、どうなっちゃったの?

 また3月11日がやってきた。
 このところ失業状態で昼夜逆転、CDプレーヤーの改造にも手を着けかねてぼんやり無為に、しかし出費だけは抑えに抑えて過ごしている。

 この日の前後は、どのテレビ局も東日本大震災被災地からの取材映像に満たされている。
 11日は、午後2時には起きて、その時刻には仏壇でお経でもちょっと唱えてからメシを食おう(最初のメシは、ピザトースト1/2枚と、小さいアンパン、それにチョコレートくらい…)かと思っていたが、眠くて眠くて、午後5時までフトンを出られなかった。

 被災地の現状を、いくら突きつけられても、自分の暮らしすら崩壊しそうな者には何もできない。
 「風化させない」という姿勢には賛成だが、それを具体的に「私が観る」という行為に、もうあまり意味が感じられない。
 というわけで、寝ていた ―。

 「風化」ということを言うと、もう全くメディアに出てこない、しかしどのように考えてもこの上ない重大事だと思うことが、やはり以前書いた時と同じく、二つある。

 ひとつは、SPEEDIの件。もう、どんな報道番組にも「ス」の字も出ない。

YouTube、小出氏

 小出裕章氏の言が、YouTube上にあり(上画像は、動画サムネイルではなく単にリンクです)、やはりこういうことなのである。
 やはり今後も SPEEDIのデータは、米軍には知らせて国民の避難には使わず、かつ巨額の予算はつぎ込み続けるのだろうか。

 それから、原子力災害対策本部等の議事録がなかった、という問題。

議事録なし。asahi.com

 こちらは、民主党が政権の座から転落してしまったので、取り上げる意味がなくなった、と言えば言えるが、それはとんでもないことだと思う。

 こちらの記事(磯山友幸氏:日経新聞出身の経済ジャーナリスト)には、この「隠蔽体質」は「民主党政権の「体質」あるいは「情報に対する考え方」とも言えるものが根底にある」とある。
 あの時の議事録は、「あるけれど隠している」、あるいは「作成したが破棄した」と見る人は、大勢いるのではないか。

 では自民党・安倍政権はそのような体質ではないのかというと、民主党に輪をかけて強権的な印象は明らかだが、民主党は災害対策も杜撰だった、経済も復活させられなかった、その上に「知らしむべからず、拠らしむべし」…これもある種強権的性格なのだから、まだそれなら経済を建て直してくれる安倍政権のほうがずっとよい、となるわけで、民主党が今後、再度有権者の支持・好感を得ることは、不可能に近い。

 そうなると自民党や保守系野党はやりやすいことこの上なく、これはたいへん危険‥‥といってもしようがないほど、国民の支持を得ている。

 被災地の映像ばかり、いやというほど見せられて思うのはこんなことだ。
 少なくとも上に挙げたことどもは、民主主義の根幹に関わることがらだと思う。
 こういったことは、もはや、それこそ過ぎ去ったこととして、「風化」して当然というような報道の姿勢は、「民主主義の根幹だから触れないんだ」とでも言わんばかりだ。

 それより、ひたすら被災地の「物語」を綴り、演出し、それで画面を満たそうとする。
 そのひと幕に、あの佐村河内 守氏がいたことを、憶えておいていいだろう。

佐村河内物語

佐村河内 守:交響曲《HIROSHIMA》
 佐村河内事件。
 いっや〜、オモロい^^。

 この人の“物語”そのものは、ウソでなかったなら、“物語”そのものに加えて大勢がこぞってその“物語”に陶酔し、讃美し、感動することにイチャモンをつける筋合いがなかった。

 いや、この「イチャモンをつける筋合いがない」ことも、少なからずちょっと違和感があったのだが‥‥。
 そして、「ウソでしたぁ〜」ということになれば、上の《違和感》が、圧倒的正当性をもって表てに出てくる。

 “物語”がほんとうだったにしても、あの風貌と、放送局(=とりもなおさずNHK!)やレコード会社の作り上げるイメージは、異様だった。「キワモノ」臭が鼻をついた。

BLOGOS 新井氏記事

 新井克弥という人が、〈BLOGOS〉上に寄せている記事では、ことの本質を
・メッセージ1=楽曲自体
・メッセージ2=“佐村河内物語”
の二つに分け、ウソの発覚で人々が不快に感じるのは、「メッセージ1」に感動していると思い込んでいたものが、実は「メッセージ2」に感動していたことに気づいて不快に陥った、と説明している。

 新井氏の分析はたいへん明快で異論の要もないと思う。
 ここで重要なのは、「メッセージ2=佐村河内物語」がウソであったから不快になった、というより、新井氏のことばを借りれば、
「「HIROSHIMA」が世間に知れ渡ったのは楽曲それ自体よりも、「佐村河内」というメディアのメッセージ性に基づいたから」であり、「自分が「新垣」=メッセージ1を聴いて感動していたとばかり思っていたのが、実は「佐村河内」=メッセージ2に感動してメッセージ1を聴いていただけ、つまり間違って聴いていたということ」に気づいて不快感を覚えた、ということなのである。

 そう。どれだけ大勢の「佐村河内ファン」が「音楽」ではなく、「物語」を楽しんでいたか、ということだ。

 米誌が、彼の“物語”を「現代のベートーヴェン」と紹介したのは、全聾という彼の設定がベートーヴェンと呼応するという意味でだっただろうが、それだけでなく、ベートーヴェンが、音楽よりもむしろ、その人の物語によって尊敬される作曲家であることが含意されていたはずだ。
 で、これはわが国でとくに濃厚・顕著なファクターなのである

 けれども、ベートーヴェンの楽曲と、その“物語”との関係は、あくまで楽曲(群)が先行する。
 例の《月光》ソナタの逸話も、「運命が戸を叩く」の“物語”も、「ハイリゲンシュタットの遺書」の意味も、彼の「楽曲」の説得力を、同時代のヨーロッパ人が耳で聴いて認めたのちに派生してきたことだ。

 佐村河内氏は、これを逆転して、“物語”を先行させて大儲けをしおおせたのである。
 ここには、「楽曲」よりもまず「物語」だ、というわが国の音楽享受の、一種、“伝統”が与って決定的に機能している。
 音楽家の身体的障害や「不遇」と、それを克服して美しい音楽を奏で、それが認められる、という“物語”、これが何よりも味わわれ、感動され、讃美される。

 今回の件で鮮明に思い出したのは、『はてしない物語』におけるミヒャエル・エンデのメッセージだ。
 『はてしない物語』は、ファンタジーの世界=「ファンタージエン」と、それに関わる主人公たちのお話である。

 「ファンタージエン」は、いつしか「虚無」に侵食されはじめる。ファンタージエン内の住人たちは「虚無」に呑み込まれ、私たちの「現実」に流れ込んでくる。
 虚無に呑まれて現実界に流れ込んだファンタージエンの存在は、どうなるのか。

 作中、ファンタージエンの住人で主人公の一人でもあるアトレーユに、同じくファンタージエンの存在・人狼グモルクがこの事態を語る件りがある。

 グモルクがアトレーユに聞く。
 「おまえ、虚無を見たことがあるかい、ぼうず?」
 アトレーユは、
 「何度も見た。」
 「どう見えた?」
 「盲(めしい)になったようだ。」
 「うん、そうだろ。― そこでだ、おまえたちがその中にとびこむと、そいつがおまえたちにとっつく、その虚無がだぜ。おまえたちは伝染病の病原みたいになって人間どもを盲目にしちまう。やられた人間どもは見かけと現実の区別がつかなくなる、とこういうわけだ。あっちでおまえたちのことをなんて呼んでるか知っているか?」
 「知らない。」とアトレーユは低い声でいった。
 「虚偽(いつわり)だよ!」グモルクは吐きだすようにいった。

(『はてしない物語』上田真而子・佐藤真理子訳、岩波書店、1982年、200頁)


 この前後の、「虚無」と「虚偽」についてのアトレーユとグモルクの対話には、まことに尽きない意味・示唆がちりばめられていて、ここ十数年の日本社会を考える上にも味わうべきものがある。
 エンデとその代表作の、じつに端倪すべからざる(← この表現、やや本来の使い方とズレるので、訂正。3.16)測り知れないものを実感するが、“佐村河内物語”にどっぷり浸った人は、まさにエンデのいう「虚偽」の毒に侵されていたのだ。

 重要なのは、この(本来の意味での)「物語」をグモルク=エンデのいう「虚偽」に変換することによって、むしろ大勢が「感動」し、「夢」を育み、生きることの糧にしているのが現今の日本社会だ、ということだ。
 この「虚偽」は、内容が事実であるか虚偽であるかは、この際問題ではない。

 佐村河内事件は、モロの「虚偽」であったゆえ、まさにエンデの警告が容赦なく的を射た形になった。
 東日本大震災以後、世は、真偽を問わずこの種の「物語」を喧伝し、「絆」を連呼することを美とし、正義とすることに腐心し続けてきた。
 むしろこの風潮に異を唱えることを圧迫的に禁ずるような雰囲気が固まりつつある。

 そのいっぽうで、日常的に老人たちが「オレオレ詐欺」に遭い続けている。
 被害者たちは、むしろ積極的に犯人の作り出す“物語”に乗ろうとしているかの如くだ。

 もう削除されていると思うが、CDの発売元・日本コロムビアがYouTubeに、かのNHKの制作した特番の映像を使ってだったろうか、“感動的な”Vをアップしていた。
 そこでは、指揮者やヴァイオリニストが、楽曲のすばらしさを讃えていたけれど、演奏に当たって、作曲者に具体的に表現や奏法を ― 手話通訳を介してでも ― 直接質すことはなかったのだろうか、という疑問は強く残る。

 NHKは、原子力発電の過去と原発の現在を、憚ることなく伝える姿勢を示していて、それはそれであっぱれなのだが、“佐村河内事件”の責任は、どう取るのかわからない。

 原発被害報道も、じつは「あと出しジャンケン」であることも、受信料を払っている視聴者は忘れてはならない。
 NHKが、いかに憚ることなく、これまでの原発行政・原発運営の問題を報道しても、そのことによって故郷に帰還できるようになる避難者は、たったのひとりさえもいないのである

 さて ― 最後はジョーダン。
 オーディオ機器に手を入れ、あるていど納得のいく音が出るようになると、私はシンフォニーを大音量で鳴らし、・私が作曲者でもなく、・私が演奏者でもなく、・私がマエストロでもないのに、スピーカーに向かって得意になって指揮をしている^^。
 最近はこれを、「サムラゴーチル」という動詞(ラ行五段活用でもタ行上一段活用でもOK^^)で表現しておりまス。

都議選雑感。

 都議選の投票率が40%を割っていた。
 先日、東京都小平市の道路建設を巡る住民投票で、投票率が50%以下という理由で開票しない=実質無効の判断が示された
 小平市長の談として「ある程度、投票率が高くないと、市民の総意として扱うのはどうなのか」ということだ(上記リンク)。

 この論法でいけば、明らかに今回の都議選は「都民の総意として扱う」ことはムリだ。

 私の選挙区からは、‘いつも当選’の自民党候補と民主党候補のほかに、長く完全無所属で市会議員選挙でトップ当選を続け、先日の市長選挙では次点まで行った、森てるお(森 輝雄)さんが出馬していて、この人に入れるつもりだった。

 が、(はずれたのだが)森さんは当選するだろうから、あと一人も入れ替わってもらいたい、と、「生活の党」の 山口あずささんに興味を持った。

森 輝雄氏    山口あずさ氏

 選挙カーからの‘がなり’を聞いても(ウルさくてイヤなのだが)、雇用の促進、セーフティネットの拡充などを訴えていて、印象は悪くなかったのだが、山口さんご本人のプロフィールを見て、一瞬で冷めてしまった。

 曰く、「最終的な時給は2700円だった。なので、非正規雇用契約自体を悪いとは思っていない。」
 この人は、自分の時給がよかった → だから非正規雇用は悪いものではない、という論理で判断するのだ

 これで批判するのは揚げ足取りだ、という気はするけれども、このようなところに「政治家(+予備軍)」のメンタリティは顕著に現われるのであり、この人が選良として登壇した時、必ずそのメンタリティは発動する。

 個人的にも、‘万年手取り時給1,800円’の私は、この行文を読んでメチャクチャ腹立たしかったし、そういう人は多かっただろう。
 結果(?)、山口氏は泡沫得票で終わった。

 もちろん、私がここで「万年時給1,800円」と書くことだって、時給1,000円で働いている方が読んだら不愉快なのである(たとえ実質月収が私より多くても。そういうケースがほとんどだろう^^;)。それくらいは考えるものだ。

 ‥‥結果、自民党の圧勝(といって4割未満の投票率)で幕。

 自民党・高市早苗氏の「原発で事故が起きたが、それによって死亡者が出ている状況ではない」という発言は、もっと公式な、要職者の発言として不快なものだ。
 とはいえ、多くの擁護者が言うように、この発言はとりあえず全くの虚偽ではない。

 原発事故に関しては、東京圏にいる私の感触としては、実際に被害を受けた人以外は、大勢の市民は驚くほど実は危機感を持っておらず、たんに東京電力一社の不注意に起因する事故だという受け取り方が圧倒的に多数派なような気がする。

 むしろ、‘危機感’は原発の再稼働が遅れて経済の沈滞が続くことに向いているような気がする。
 来たる参院選も、この流れで与党が圧勝しそうだ。

 右傾化への危惧というより、「右傾化に、生きる力を見出す」人々が圧倒的に多そうだ。
 嫌韓・嫌中的ヘイトスピーチの嵐は、いかにも品位を落とすが、それを生き甲斐と感じる向きが激増しているのだろう。

 嫌在日ヘイトスピーチ発信者の使うことばで最も不快なのは、「反日」なる単語だ。
 元来「反日」は、外国人の中で日本に敵対的な言動を取る者を指したはずだが、それを自分たちとは相容れない同国人に向かって使うようになっている。
 これはつまり、論理として「非国民」と同義である。

 同胞を敵対的「外国人」と見なして罵詈を浴びせるのは、キリスト教国やイスラーム圏で、「背教者」、「異教徒」として扱うことと、まことにパラレルだ。
 イザヤ・ベンダサン=山本七平氏が「日本教」と称したものは、まさにこれだ。実によくわかる。

 モルシ大統領を巡るエジプトの、エルドアン首相を巡るトルコの、そしてちょっと以前の、タクシン氏を巡るタイの、国民を二分しての対立・憎悪は、我が国から見ると「何とも野蛮だなあ。もうちょっと知的に対話できないのか」と軽侮してしまうものを感じるのだが、こっちも同じだ

 さて、では今度(以降)の選挙、低所得・貧困組は、社民党あたりに投票するか、というと、それはまずない
 何といっても、資産1億円を有する党首に、低所得層の気持ちがわかるはずがない、というのは、言い切ってもいいだろう。

 前党首・土井たか子氏の質素な住まいがテレビで紹介され、印象的だった記憶がある。
 その土井さんも、大敗北を喫した時、「街頭ではあれだけ声援をくれる人たちがいたのに」という無念のことばを吐いていたことに、私は落胆した。
 街頭で声援を送る人たちしか見えていない党首を持つ党に、未来を託す有権者はいない

 福島さんには、土井さんに持ったほどの好感も、持つことはできない。
 彼女は「ぶれない」党首であり、党であることを誇るけれども、それは、「動かないまま立っている」という、ケンタッキーのサンダース人形と全く同じ役割を演じ続けることによって、党首である身分と歳費収入とを「既得」のままとしている、としかだれにも感じられないだろう。

 社民党は、ぼつぼつ国会で完全に議席を失うことになるのではないか。そうなっても、1億の資産のある党首は、何の痛痒も感じないのである。

「公共事業、何が悪い」???

 テレビのニュースを見ていたら、自民党の野田聖子氏が、「公共事業、何が悪いのか」と言った、とのこと。


 ニュースはこちらのとおり。

 これが全く正論でないことは、ない。
 が、この人の物言いは、「中央自動車道のトンネルでの事故で若い命が失われたが、あのようなトンネルは全国至るところにあ」るゆえに、公共事業は今後一層必要だ、というのである。

 道路公団の創設以来、ず〜っと政権にあり続けた党の幹部が、このように言うのだ。‘言ふもさらなり’ではあるが、無責任、かつ醜悪だ。
 <メンテナンスがほったらかしになるような公共事業>を、これからもず〜っと続けよう、という意味だとしか取りようがない。

 加えてここで、笹子トンネル事故で死亡者が出たことを、自論の根拠にしようというようにさえ聞こえる論法で自党の政策を正当化したのは、とりわけ長年の政権与党の幹部の発言としては、まことに無神経で無慚だ

 自身の所属する党が、道路公団の創設からして、ずっと与党として関わってきたという責任感と反省は微塵もない。
 このようなマインドに、長年の原子力発電政策への反省など、ありえないだろう。

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