安保法案可決…。

 ‥‥何だか書きづらい雰囲気漫々‥‥で、例の‘安保法制法案’が参議院でも可決したらしい。
 テレビは2月真ん中に廃棄したので、情報源はネットとAMラジオ・TBSの《荻上チキの Session-22》だけである。

 いつもよく拝見する Hatenaブログから知った、同じく Hatenaの、gudachan氏のブログをよく見る。
 Gudachan氏は、安保法制には反対、いわゆる‘ネトウヨ’への鋭角的論難記事が多く、それでいて左翼ではなく、そしてある意味、ガッチガチの古典主義的教養主義者、とお見受けする(← この点には、違和感が皆無ではないものの、基本的には同感・敬服している)。平成生まれだそうだ。
 連日の SEALDsの動向などは、こちらで読んでいる。


 で ― 私個人は、安倍政治にはかなり不快感を持っているけれども、SEALDsといっしょになったりして「戦争法案反対!」と叫ぶ、という気持ちにはなっていないのが正直なところだなのだ。

 まとまったことは、書けない。
 昨今のネット情報などからの、印象だけ。
 といっても、ネット空間というのは、政治がらみのことになると、反対の立場の人、反対意見の論者をバカ呼ばわりしないとネット・ユーザーではないかのごとくで、バリバリの罵詈だらけの醜悪腐臭空間にならないほうが難しいので、‘ちゃんと’考えられる資料が少ない。
 そもそも、「安全保障」というトピックそのものを、(可能な限り)客観的に見る資となるサイトは、ほとんどない。
 いや、これは出版界も似たり寄ったりかもしれない。


 さて‥‥この「集団的自衛権」なるものであるが、《荻上チキの Sesion-22》にもよく登場する、憲法学者・木村草太氏の「日本の安全保障を考える」(SPUR.JP内)が紹介している、柳澤協二『亡国の集団的自衛権』(集英社新書)の、Amazonレビューの中に、「1951年に日米両政府間で取り交わした日米安保条約と71年に継続した同条約の前文を知らぬ訳はあるまい。/この前文には、我が国は国連の定義するところの集団的自衛権を有すると明記してある。/この人の目は節穴か、それとも何を今更、寝言をおっしゃっているのか?である」という非難文言が見える。

 そのとおりで、「日米安保条約」前文には、「両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し」とある。

 ほほう、すでに55年前に「集団的自衛権」を認めているではないか、ということになりそうだが、当該レビュアーとほぼ同じ論旨で今般の集団的自衛権を「問題なし」としている(そうな)東京新聞論説副主幹・長谷川幸洋氏に対し、こちら(宮武 嶺氏ブログ記事)が、同条約「第三条」に「締約国は、‥‥(中略)‥‥それぞれの能力を、憲法上の規定に従うことを条件として、維持し発展させる」と明記されることを示して、反駁している。

 こういったところを確認すると、上記Amazonサイトのレビュアーの「寝言」は、わが国Amazonサイトのレビューのレヴェルを象徴的に示していて、面白いと同時に、暗くなってしまう。

 ここで、まさに「憲法上の規定に従うことを条件として subject to their constitutional provisions」の「constitutional provisions」を、この文言があるから集団的自衛権は違憲である、とするのが反対派であり、「constitutional provisions」には「〈違反しない〉という解釈が成立しうるから、違憲ではない」とするのが政権側、ということになる。

 《荻上チキの Session-22》への出演で聞いたことがある、(ちょっと)美人の政治学者・三浦瑠麗さんのブログ《山猫日記》の「集団的自衛権論争の本質」は、一見、「安全保障」に関してニュートラルな知見を得られそうに感じて読み始めたのだが‥‥。

 この説は、「集団的自衛権をめぐる論争の本質を理解するには、大きく三つの領域で物事が進行しているという状況認識を持つことだと思っています。一点目は、安全保障の領域、二点目は憲法解釈と立憲主義の領域、三点目は感情的化学反応の領域です」と、わかりやすく(?)議論を腑分けする。

 その中で、「憲法解釈と立憲主義」の部分では、反対派の中に「安全保障上の必要性については言明せずに専ら手続論の観点からする批判と、安全保障上の必要性に対して法解釈の観点から反論する論理的には支離滅裂な、それでいて戦後日本の知的伝統からは正統な批判とがあります」がある、という。

 ここには「安全保障上の必要性については言明せずに専ら手続論の観点からする批判」「安全保障上の必要性に対して法解釈の観点から反論する論理的には支離滅裂な、それでいて戦後日本の知的伝統からは正統な批判」の2種の批判がある、と読めるが、この内容の違いはよくわからない。
 が、いわゆる‘憲法学者’の発言について、「法解釈の観点から反論する論理的には支離滅裂な」論と断じているとしか読めないところは、とくのその「支離滅裂」という表現に、‘ネトウヨ’の「バカ」と似た臭気を感じざるをえなかった。

 加えて、「「どうどうと憲法を改正すべき」という主張‥‥(中略)‥‥になかなか与する気になれないのは、このような主張をされる方の本音が、立憲主義を方便とした現状維持であるのが見え見えだからです」といい、さらに「このような主張には、立憲主義を方便とした日本の民主主義に対する軽視が潜んでいるように思えます」という。

 三浦さんは、先行する行文で、「憲法解釈を変更するということの意味については‥‥(中略)‥‥どのような政治的伝統の中に存在してきたかということが重要です」としながら、法案等を違憲とする憲法学者たちは、憲法と立憲主義を「方便」として、自分たちの政治的立場を‘現状維持’している、言い換えると、憲法と立憲主義を「人質」としている、という指摘である。

 このうち、「どのような政治的伝統の中に…」という場合、戦争で塗炭の苦渋を飲まされた人びとのことが、まず意識にのぼせられなくてはおかしいが、どうもそういう気配は、この政治学者の言説には、ないようだ。

 ただ、それでも、憲法学者や戦後護憲派が、現憲法条文と立憲主義とを「方便」だというところに、何かひっかかる、言い換えると、単に「憲法を守れ」、「立憲主義を守れ」では済ませきれない部分を感じざるをえないのも事実なのである。

 と同時に、三浦さんに関して、‘とんでもない論客’だという論がネット上にあるのも、見逃せない。

 三浦さんは、全国民が等しく「血のコスト」を自覚して、好戦的国家・国民になることを回避するには、「老若男女を問わない徴兵制」しか方策はない、という提案をしている。

 これに対しては、「ヴェトナム戦争が泥沼化した時代、アメリカは徴兵制を敷いていた」といって、三浦さんを‘危険’と見る「きなこ」氏のブログ記事がある(当然、あるだろう)。

 三浦氏は、‘現実的な’安全保障(の国際的環境)を重視する側と、ひたすら立憲主義を「盾」に取って、憲法と憲法解釈の「現状維持」を固守しようとする側とが、「泥仕合」を繰り返していることへのそうとうな苛立ちがあり、そして氏は、「現実的な安全保障」側に立つ。

 私個人としては、‘わかったふう’に抑止力(抑止目的戦力)の必要性(必要悪)を簡単に認めるということにも大きな抵抗があるとともに、「日本は憲法九条を固守し、一切戦闘機能を保持せず、どの他国とも安全保障上の同盟関係を結ばない」というようなポリシーにも、とても簡単には賛成できない。

 三浦氏は、徴兵制を廃止したシヴィリアン・コントロール下のアメリカが好戦的態度をとったことをあげ、反対に「自らの命や家族の命を懸けてまで倒すべき悪というのは、世の中にそう多くはない」から、老若男女無差別の徴兵制こそが「ナショナリズムを煽るものではなく抑制するものとなるはずだ」という。

 私は、この人が「血のコスト」と称するキーワードを提出していることはきわめて重要なものだと思いつつ、三浦氏自身はこの語を著しく観念的に、つまり単に机上の観念としてしか用いていないようなのが、不満であると同時に不審である。

 もっとも、好戦的な嫌中・嫌韓派には、このような「血のコスト」の‘脅威’が抑止力として働く可能性はあるかもしれない。
 しかし他方で、日本人の中にも ISILの兵士に志願して渡航しようとする者がいたし、外国人への暴力の行使を強く希求する手合いも存在する。
 兵役への実感が好戦性を抑止できるという考えは論理的でも実証的でもないと思える。

 それより大切なことは、何より敗戦直後から現在まで、さまざまな政治的環境の変化にもかかわらず、戦争体験の悲惨さを語り継ぐ人びとがおり、このような人びとと、彼らの背後にいる、すでに鬼籍に入った人たちも含む、膨大な戦争被害者こそが、まずはダイレクトに「血のコスト」を支払うことを強制された人びとであり、「血のコスト」の重い意味をその生命で感じている人たちだということなのである。
 三浦氏の言説には、その視点が決定的に欠ける。

 《荻上チキの Session-22》は、そんな三浦氏や、安保法案の基礎や「安倍談話」における安倍首相のブレーン・北岡伸一氏を招いたりもしていて、これはある種、番組維持存続のための方策とも取れなくはないけれど、ゲストはフランクにチキさんと語っている。

 北岡氏の時は、ポータブル・ラジオの前でかまえて全部聞いた。
 首相談話に「侵略」の語を入れさせたりしたので、氏に対しては右派からの罵言も多く、氏の安全保障論には、むしろある種バランスのとれたものも感じた。
 インタビューの冒頭、チキさんは北岡氏が幼少のころ、家族・親族から戦争の話を聞いたことがあるか、という質問をした。

 私が、このインタビューでいちばんびっくり仰天したのは、北岡氏が、ひどく簡単に、そしてぶっきらぼうに「ないです(ありません)」と答えたことだった。
 私は昭和30年代生まれで、父親は兵役の経験があるものの外地へは行っておらず、祖母も父の生家で戦時を過ごし、家は焼けてもいない。
 それでも父は兵役時代の不快なことを語り、祖母も「焼夷弾」の脅威を語っていた。

 昭和23年生まれの北岡氏が、家族・親族から戦争の話を何も聞いていない、というのは、ひっくりかえるほど驚かされることだった。
 もちろん、そういう話を聞いていないならしようがないし、そういう話を聞いていない人の安全保障論は信用ができない、とは言えないのだけれど、ほんとうにびっくりした。

 ‘現実の’国際社会における安全保障環境の激変に、わが国も「世界レヴェルで」対応しなくてはならない、という場合、国会運営の実態から、公文書保存と開示の充実まで、「先進国レヴェル」にしてから、初めてことを始められるのである。

 「軍事演習」というものは可能だが、「戦争演習」というのはありえないのだ。これは災害における「避難訓練」はできても「被災訓練」はゼッタイに不可能なのと同じである。

 その点で、「可決した」今の時点は、賛成・推進派にとっても口舌にのぼせないほどの大きな緊張を強いられる転換点であるはずだ。
 論争の両派のあげ足取りの議論は全部ほうったとして、自衛隊は劣化ウラン弾を、そして海外では核弾頭も輸送できる(=しなくてはならない)ということになった。

 この「戦後70年の安全保障の大転換」は、とくに海外に出る旅行者や出張者、あるいは駐在者にとっての「セキュリティの70年ぶりの大転換」に、まずはなるし、自衛隊はもとより、関係官庁にとってそれこそ‘想定外’の事態が突発してくる可能性もありそうだ。
 政治家や知識層やメディアの「志」と「力量」とは、そっちのほうで測られるだろう。

ヤマト運輸、メール便を廃止。

 ネットオークションなんか、もうやっている場合ではないのだが ― ブログを書いている場合でもない!;; ― オデオ関係の書籍3点が落札され、先ほど発送した。
 ややこしいので「送料無料」にしている(そうしておいてよかった。1点はクロネコメール便で厚さ1cm以下だったので、164円請求していたら気まずいことになった)が、そうすると ゆうメールなんかだと落札額の2割以上持っていかれることも多い。

 1点だけで薄いものの場合、クロネコメール便が重宝するのだが‥‥

クロネコメール便廃止

 そのクロネコメール便が、周知のように3月末で廃止になる。

 同社として、「お客さまがクロネコメール便で信書に該当する文書を送った結果、郵便法違反容疑により、当社だけでなくお客さままでもが警察に取り調べを受けたり、書類送検されたりするケースが発生して」おり、「法違反の認識がないお客さまが罪に問われるリスクを放置することはできないため」メール便を廃止する、ということだ。

 気になるのは、
(1) 送り手が「書類送検」された例が出ている、ということだが、この情報に、具体性がない。
 まず、どうして「発覚」したのだろうか。そのあと、警察のどのような捜査が行なわれたのか。その辺の取材をしたジャーナリストは、いないようだ。
(2) 日本郵便のサービスでも、「ゆうパック」や「ゆうメール」では、信書を同封してはいけない。
 が、実際には、親が子どもに送る「ゆうパック」=‘小包’に、「ちゃんとごはん食べているかい?」みたいな手紙を同梱することは起こっているのではないだろうか。
 ― だが、こちらはあまり問題にならないようだ。なぜなら、郵便法は、サービスに関してではなく、「日本郵便以外の事業者が信書を扱うこと」を禁じているからである。

 日本郵便以外に信書移送を委託した場合の、その罰則の整合性というのは、どういうところにあるのだろうか?
 犯罪を構成するという場合、そこには「被害者」がいる、ということがまず思い浮かぶ。

 郵便法にいう、「日本郵便以外の者に信書の輸送を委託した」場合の「被害者」とは?
 抽象的に考えると、「郵便や信書の発送・配達はユニバーサルサービス(=日本国中どこででも同じく受けられるサービス)でなくてはならない」という理念が、郵便法の根柢にあるとして、そのユニバーサル性を、日本郵便以外に信書を託することが「侵害してしまう」ということなのだろう(そうなのか?)。

 メール便で「書類送検の例まで出ている」のなら、‘宅急便’への信書同梱の例もありえ、そうなると、「日本郵便以外の事業者は個人宅配便を扱うことは危険」とまでなりかねないはずだ。

 立法府は、いうまでもなく国会議員で構成される国会である。
 歳費2,200万円(総収入は当然それ以上)の国会議員には、各法の整合性について、考察の怠慢がないのかどうか、選挙民はいまいちど考えてみてもいいのではないだろうか。

 ヤマト運輸としては、4月以降、メール便に相当するサービスとして、「ネコポス」というサービスを提示している(「宅急便コンパクト」は、運賃が高価過ぎて問題にならない。こちらはむしろ、従来の宅急便の廉価版として利用するべき)が、「※但し、23cm×11.5cm以内を除きます」としていて、カセットテープ1ヶを小さな封筒で送るような場合は使えないことになる。


 CD1枚なら、1辺は必ず「11.5cm」を超えるから、大丈夫なのか…。

 加えて、個人の利用状況・条件で運賃が変わるそうで、明記されていない。

 ということで、クロネコメール便は、ほぼそっくりそのまま日本郵便の「クリックポスト」に取って替わられる情勢であるわけだ。
 この「クリックポスト」、Yahoo!ウォレットからのクレジットカード引落し以外、決済できない。

 また、1件の発送につき、A4 1枚の伝票をプリントアウトする必要があり、貼付部分はその左上1/4だけ、という逆-エコ志向
 伝票の入力・印刷そのものが「発送サービスの購入」=決済になるので、プリントアウトしたあとで「あ、住所1字間違えちゃった」というような場合の訂正法は、ネット上でもよくわからないという指摘がある。

 かつて、小泉政権の時、‘郵政民営化’は選挙をあげての大号令となり、国民の大多数は大共鳴したわけだが、「郵便法」のこの一端に関しては、どうなのだろう?

 個人的には、同じ宅配サービスを利用するなら、全体に安価で、十分安全でもある日本郵便「ゆうパック」を利用しようと思っているユーザーであり、日本郵便の職員さんには常々感謝している者なのだが、‘郵政民営化’以降、どうも彼らがますます労働強化されるいっぽうで、窓口では待たされるし‥‥‥日本郵便が株式上場する、という時期でもあり、なんなんだろうなあ、という感じだ。

投票日前の二題。

中村修二氏、特許法改正反対

 NHK《時論・公論》で、特許法の改訂で、社員の発明は、その権利が会社・企業に帰属する方向に改訂される、というトピックを扱っていた。
 折りしもノーベル賞受賞でスポットライトを浴びている青色LED開発者・中村修二さんが、発明の権利に関して所属していた企業と対立していたことが報じられている。

 政・財界からすれば、こういった‘過剰に権利を主張する(かに見える)’社内研究者は、厄介な存在であろう。
 この問題に関しては、いろいろな意見があると思われるが、法改正に踏み切ったところには、明らかに、現政権が財界の意思を尊重する、という姿勢であることを明示している。

 思うに、安倍政権はNHKに選挙直前にこういうトピックを扱ってほしくはなかっただろう、と推測(邪推)している。

 加えて、発明・特許の帰属がどうなるにせよ、弱い立場の個人が、企業との間で不利になる‥‥場合によっては、発明・開発に関する権利が認められないというだけではく、一端企業に利用された開発・発明にメリットがなかったとして民事あるいは刑事で告訴されたり、というような、結果的に個人が‘陥れられる’ような事例に関する注意も喚起されなければならないと思う ― ネット上で印象に残ったのは、こちらのブログ記事に見える、‘小保方さんではない事例’だ。

 昨今かまびすしい研究者の不正防止教育の重要性であるが、ここには、研究者個人が自らの権利をどう守るか、という「教育」もセットでなければならない。
 しかし、それは、「企業」社会=財界にとってはやってほしくないことであろうから、積極的にやっていることが知れた大学・大学院は就職面で差別されるということも危惧される。

吉野家、牛丼値上げ

 もうひとつ、安倍自民党が選挙直前にやってほしくなかったと推測できることこと‥‥は、吉野家の牛丼値上げ発表

 リンクした朝日の記事を見ると、じつは以前も牛丼が380円だった期間はかなりあるのである(松屋と違い、味噌汁は別売であることには注意)。
 ‘それでも払えない私’が言うのはおかしいが、一杯380円の牛丼というのは、そう高くない、どころか、非正規でガンガン働かざるをえないバイトさんたちのお蔭で、安い外食ではある。

 それでも、私個人はもう何ヶ月も外で牛丼・牛めしは食べていないし、80円の値上げで、弁当にシフトするサラリーマンはそこそこいるのでは、と思う。
 気になるのは、今後の‘空前の’円安潮流で、牛丼チェーンの値上げだけでも、これだけで終わりそうにないところだ。

「アベノミクス」という「語」

Prime Minister!

 解散総選挙。得意満面欣喜雀躍の安倍総裁率いる自由民主党である。
 完々璧々の一強多弱状態で、自分たちの政策がどうの、は一切おかまいなく、一斉攻撃、機銃掃射、敵全員抹殺‥‥とうまくいくのか? これが行きそうなのである。

 GDP対前期成長率年率換算 −1.6%で“民意を問う”。
 GDPのマイナス成長については、世の‘エコノミスト’という業種の人たちは、個人消費の落ち込みはあまり言いたくなく、もっぱら「誤算」の主因を、企業の在庫減に求めている、とか。

 経済は全くわからない私には、判断できかねるが、そもそも「エコノミスト」というような職種の人間には、日々の生活が困窮している層はもちろん、低所得層全般の生活感覚なんかわかるはずもないのである。

 それでも、今度の選挙、連立与党以外に「マトモ」な選択肢はありえないと大多数の国民が判断するように思う。
 民主党は、いちど現実に政権担当した時の、あまりの無惨さを忘れている人はいまいから、積極的支持はまずありえない。
 「みんな…」を標榜した野党は、人望のないリーダーの気合いだけを戴いて、解散と同時にみごとに空中分解した。

 ‘社・共’は、単純にカウンターバランスになりうるだけであり、現実の政治運営に携われば民主党よりひどい混乱を引き起こすこと請け合い‥‥こういう言い方はしたくないけれど、「政治」の世界で高額の収入を得ている人びとは、その感覚を脱することは不可能なのである。

 これは、分野が異なるが、かの「朝日新聞」現象に否みようもなく顕著に現われてしまった。
 あの「朝日新聞」の所業で、わが国の「リベラル」がどれだけ傷ついたか知れない。大新聞の上層部という形で「生活している」と、自分たちの「メシの食い方」で、人びとのそれまでの努力をどれほど毀損しようと、遠慮や反省というものは生じようもないのである。

 ‥‥てな議論をしてもあまり果実はない。
 本エントリでは、「アベノミクス」という単語について考えてみたい。

 「アベノミクス」は、安倍晋三の「Abe」と「economics」を合体させた、“安倍晋三の経済政策”という形で発案された造語、ということになっている。
 元来、「economy=経済」という英語(欧語)は、ギリシア語で家庭を意味し、ひいては「家計」につながるオイコス oikosと、秩序・法律を意味するノモス nomosが合体してできた単語である。
 しかしてエコノミー(≒エコノミクス)は、「家計のマネジメント法」というような形で、経済の学というように訳される。

 で‥‥この語源から、こんどは「アベノミクス」という語の意味を考えた場合、「安倍晋三の‘経済’政策」であるというよりも、「Abe+nomos」、すなわち、
 「私、安倍晋三が法・秩序である」
 という宣言だと、まさに読めるのである

 安倍首相の改憲をゴールとした、モノスゴい Führer(=指導者)ぶりには、全く尋常でない空気を感じる。が、これこそが「アベノミクス」なのだ!

 新憲法草案には、障害を持った人びとや、環境への言及などがあるにはある。
 安倍氏のサイトの改憲見解のページには、現憲法に対して、「当時は想定できなかった環境権、個人のプライバシー保護の観点から生まれてきた権利などが盛り込まれていません」という批判を記している。

 「環境権」! これを大切にし、実現に努めるような政党が永く政権の座にあった国なら、水俣病・米水爆実験被曝・ハンセン病・アスベストといった悲劇的な問題が、これほど長きにわたって解決を妨げられ続けるということが、ありえただろうか?

 いや、こんな議論もまた果実をもたらすまい。完全無欠の「一強多弱」である。

「ペインボディ」とイスラーム国

 新しい‘お助け本’として、エックハルト・トールの『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる(The Power of Now)』をいちど通して読み、また最初からゆっくり読んでいる。

 ‘スピリチュアル’っぽい要素はあまりなく、きわめてシンプルな‘生き方・考え方指南書’といった趣きがある。
 ともかく骨子は「今に在れ」というひとつことに尽き、ときおり臨済などを引用するが、その『臨済録』の「随処作主、立処皆真(随処に主と作(な)れば、立処みな真なり」と言うのなどに即、通じる(岩波文庫で積ン読だった『臨済録』も、通勤の車中でほぼ読んだ)。

 反対に、彼の教えで、人間を不幸に縛り付ける悪しきファクターは ― 一人歩きする時間観念や、その元となる思考、ネガティヴな思考が身体に共鳴した感情、といったものだ。

 その中でも、過去からの不快な感情が凝集して実体化したような感情を、「ペインボディ Painbody」と称して、これを見極めて意識の光に曝すことで、これの力が消失し、影響から解放される、と言う。

 『さとり…』を読んで、その言説がじつに全(まっと)うであり、実践の手引きとしても哲学的思惟への示唆としてもたいへん有益だと思ったと同時に、私自身の内面に蓄積され、ある意味マグマのように‘活きいき’と脈打つ「ペインボディ」のエナジーの大きさに、改めて強烈に気づいた。

 このようなペインボディが強烈に作動すれば、通り魔のような犯罪は容易に起きるだろう。
 秋葉原で通り魔を実行したKなどは、まさに全人格を自身のペインボディに明け渡した実例だ。

 私が、自分のペインボディの大きさに驚き、戦くというのも、E.トールのいうように「いまに在る」べくいくら努めても、過去に関するネガティヴな思い=ペインボディが、常に‘活線’の状態で意識のすぐそばにあるということなのである。

 不用意に触れさえしなければ、手の近くに400〜800Vの電圧のかかった活線があっても、それだけで感電はしない。
 しかし常にそのような状態で暮らすというのは、なかなかのストレスである。

 E.トールがいう「強烈にいまに在る」ことは、ちょうど高圧アンプを調整する際に手袋をするようなことになるのだろうけれど、手袋と違って気が緩めば‘感電’するのである。

 視点を変えると、この「ペインボディ」はしばしば集合的 collectiveなものになりうる。
 その典型が「イスラーム国」だ。

 メディアがイスラーム原理主義テロリストの犯行を伝える時、「イスラームそのものは平和的で、決してテロを是とするものではない」という、ある種免罪符的コメントを付加することが多いけれども、イスラーム国の所業は、そういったコメントの浅薄さをみごとに嘲うごとく、残虐だ。

 「イスラームそのものは平和的」と糊塗すればするほど、「イスラームの中の残虐性」が集合的に凝集・実体化してイスラーム国をますます強めていっている。

 ユダヤ・キリスト教、ヘレニズム、近代的民主主義の伝統が息づく欧米社会の中から、イスラーム過激主義に呼応する若者がなぜこんなに輩出するのか。
 NHKの『クローズアップ現代』や『ニュースWEB』で呼ばれるゲストが行なう説明は、ほとんど「彼らの巧みなネット利用宣伝」に終始している。

 聞いていて、こちらの知識不足を棚に上げてしまうけれど、ほんとうに、救いようがないほど浅薄だ。
 こうした専門家たちには、心理学やイスラーム思想史の、知識はともかく、そういったファクターの考察が必要だという認識そのものが、根底から欠如しているように感じる。

 イスラーム研究の権威だった井筒俊彦氏の研究は、研究対象への好意があるのは当然としても、どうしても哲学思想面に重きを置き、政治的考察に乏しい嫌いはあるような気がする。

 そんな井筒氏の著書ではあるが、イスラームのいわゆる宗教指導者、ウラマーについて語る部分で以下のように言っている。
 「ウラマーの政治的権力は実に絶大なものであります。なぜなら、いったん異端を宣告されたが最後、その人、あるいはそのグループは完全にイスラーム共同体から締め出されてしまう。‥‥(中略)‥‥「イスラームの敵」になったものの刑は死刑、全財産没収。個人の場合はもちろんそのまま死刑。異端宣告を受けたためにどれほど多くの人が刑場に消えていったか、数えきれません。」(『イスラーム文化』岩波文庫(初出版1981)、48〜49頁)

 イスラームのオーソドキシーは、ある部分、明瞭に暴力によって決定・継承されてきた ― 他の一神教にもその要素がなかったわけではないが ― という史実を覆い隠してよいはずはなく、むしろ現代のムスリムに対して、この部分の総括をどう求めてゆくのかが、非ムスリムの責務ではないかとも思う。

 片倉もとこ氏の『イスラームの日常世界』(岩波新書、1991年)は、民族学者としてのプロの目で、しかもくだけた日常的視点でイスラームの生活実態を描いている好著(ただし私は拾い読みていど)だが、その終わりのほうで、イスラーム原理主義の動向調査をする英国人のことばを伝えている:
 「恐ろしいと思うのは、大事件をおこすテロ集団の突発的な行動ではない。むしろふつうの家庭に育つ中学や高校の生徒たちが、ある日突然のようにイスラーム服に身をつつみ、熱心なムスリムになる。そして西洋服の母親や酒を飲む父親を批判しはじめるという現象が、あちこちの家庭でおこっているということだ。マスコミにも報道されないうちにジワーッとくる日常的変化だ。若い世代に浸透して、ジワジワと進行しつつある地殻変動は、世間をさわがす表立った“事件”よりも、恐ろしい」(216頁)

 こういったところを掘り下げる視点を、テレビにおけるイスラーム・テロの報道では全くといっていいほど見たことがない。
 もっとも、本エントリーもそういうところを掘り下げる意図も、私の知識もないのだが、そうこうしているうちに、E.トールのいう「ペインボディ」が、ほんとうに集合的なものとして、実体化したというのが実感だ。

 イスラームの中の最も暗黒な部分と、現代世界の若者の中の実体化までせざるをえなくなるほど膨張した「ペインボディ」が、引き合い、融合・共鳴して「イスラーム国」を日々強力なものにしていっているように見える。

 こんな集団に、よりによって参加しようという若者がわが国からも出てきた。
 とんでもない、と言わない人はいないし、私もそうだけれど、「とんでもない」と言う向きの中には、こういう心境に至る者の気持ちには一切目を向けていない人もいるのではないかと思う ― もちろん、そうでない人もいることもわかるが。

 現在、高齢化しても反戦の意思を何らかの形で強く表わしている方たちは、何といってもその動機が実際の戦争被害であることが多い。
 まことに皮肉で、かつ決定的に悲劇的なことだが、戦争の恐ろしさを真に「知る」には、戦争被害を体験するしかないのだ。

 実際にイスラーム国に参加して、予想とは全く違う「戦争」を体験して、そこでトラウマを得る若者が増えれば、それはそれで、恐ろしいプロセスではあるが、自身の、あるいは人類普遍の「ペインボディ」に気づく可能性は大いにある。

 もっとも加えて痛ましいのは、気づいたとしてもそこから「癒える」ことは不可能かもしれないところだ。
 そうではあっても、それは「魂の破壊」とともに、最後のその若者の「気づき」になりえる‥‥いや、これは私の「ペインボディ」がこんな残酷なことを言っているのかもしれないが。

 イスラーム国の真っ黒な「国旗」は、内包するペインボディの深さを象徴している。
 こうした共同体は、内部で日常的に相互殺戮も行なわれているはずで、そういったところを参加者が味わうことも、かつての連合赤軍などのさらにスケールアップしたものになるだろうし、まことに悲惨だが、彼らはそれを味わっていくしかない。

 こうした暴力支配の要素は、そもそも井筒氏が述べたように、イスラーム共同体に歴史的に存することではあったし、北朝鮮なども数十年にわたって変わらないので、ずっとこのまま成長し続けるかもしれないが、あまりの暴力過剰支配は、内部崩壊を来たさないとも限らない。


 いっぽうで、エボラ出血熱のような、自然からの脅威が恐ろしい勢いで人類に迫ってきている。
 ニュースを見ていると、最も恐ろしいものは「外」にあって、「外」に対してどのような防御をするべきかと言うばかりであるが、内面の「ペインボディ」は、真に恐るべきものだと思う。

大学非常勤講師の三重苦…。

 貧困、格差、非正規、etc. ‥‥といったあたりの単語でググっていると、もう私には過去のものとなった‘職業’にかんして記事ひとつ発見。

Yahoo!ニュース記事

 また Yahoo!ニュースだが、《大学非常勤講師の三重苦=奨学金ローン地獄・高学歴ワーキングプア・人間破壊と生命の危機》

 「首都圏大学非常勤講師組合」の松村比奈子委員長へのインタビューという形で、最初は、早稲田大学の非常勤講師就業規則に関して、刑事告発がされた、という記事から始まり、上にリンク・紹介したページは続きになる。

 個別早稲田の問題は、重要だろうが個人的にはあまり興味を持てず ― ただし、雇用条件の決定に関わる選挙が、入試時期に行なわれたなど、裏事情が見え過ぎるが ― インタビュー②のほうは、見て「ふんふん」であった。

 見だし画像に「平均年収306万円!」とある。私が非常勤になって、年収が300万円あったときが何年あっただろうか?
 もちろん、ここで松村氏が述べているのは、専任教員に伍する能力・業績があり、専門研究を続けてゆくという意思のある人たちのことであり、私のような、博士学位も取らず(取れず)、研究もいいかげんな者は、現状の私のように塾・予備校の低時給労働者に成りさがった上、仕事の継続もままならない境遇に陥って当然ともいえる。

 「非常勤講師の三重苦――過去・現在・将来」とまとめているのは、なるほど、である。
 借りた奨学金の返済、現在の低収入、将来の不安、と、これは大学‘非常勤’を辞めた私にものしかかっている。

 松村氏は、さいごに「非正規雇用」そのものの「非人間性」を訴えている。
 ここは、「大学教員」という枠組での発言なので、他の非正規職にも、松村さんが同じ見解を示すかどうかは、ちょっとわからない。
 大学教員・研究職となると、学会への参加や、研究機関での調査などで資格が必要であり、その点は市井の「非正規職」とは異なる。

 「家族のセーフティーネットもなく生命の危機にさらされる非常勤講師」‥‥ふむ〜。
 読んでいて気づいたのだが、まさに今の私が、「生命の危機にさらされる」状態なのである。それが、もう15年、なのである。

 ふむ〜、そうか。ここまで困窮化して身に沁みてきたけれど、ずっと「生命の危機」だったのだ。いや、月給+賞与+(なけなしの)退職金のあった任期制職時代でさえ、‘その時だけ’なのだから、同じ状態だったわけだ。

 「非常勤講師で家族がいなくて病気になってしまったら現実の問題として生存が危うくなる。」
 私も、です。塾・予備校講師も同様だが、そこは記事の視野に、ない。
 そうだったのだ‥‥私など、すぐ生存が危うくなってしかるべき存在だったのである。

 松村氏は、教育への国の支出の貧困がいちばん問題だとするが、ここに対しては反論・批判からさらには嘲罵もあるだろう。

 しかし、以前にも書いたが、塾から大学まで、子どもたちの学力伸張支援にかかわる人間の多くが「非正規」の不安定・低収入職でまかなわれていることは、私は日本の文化や技術水準に、いつか大きな弊害をもたらすことになると思う。

 他方で、専任の小・中・高校教員の雑務が驚異的に多いことも指摘される。
 つまり、教育に関わる人たちが、「シンドくて、報われなくて当然」と思われている‘文化’がある。

 別のサイトで、《日本の子供の幸福度 総合6位 貧困率は深刻化》を見た。

Huffpost記事

 「日本は「教育」と「日常生活上のリスクの低さ」の項目では1位となったが、「健康と安全」では16位、「物質的な豊かさ」は21位と、中位から下位に位置づけられた」という結果だそうで、総合6位というのは、いいほうなんじゃない? という印象ではある。

 「日本は物が豊かだが…」という紋切り型の表現で済ませているうちに、子どもたちの「物質的な豊かさ」は世界で21位になってしまっていた。
 「教育」が1位、というのは、ちょっと基準がどんなものか、疑問を持たないでもない。
 1位、とある種の客観的評価で評価されたことはそうなのだろうが、「教育=1位」と、他の項目が連動しない。

 またもや、記事ページへのコメントを突っつきたくなる(コメントは、ページを開いてすぐはDLされないので注意)。
 ひとりの方が、「物質的豊かさが下位で教育が上位というのは、子どもにとって希望が持てる状況だと思います。‥‥この教育を受けた子どもたちが大人になる未来は明るいと思います」と書いている。

 最近の日本は、学童の学力が低下しているという警告が常で、そのテコ入れを云々する人たちが多い。
 それでも「1位」。かつては、もっと「超-1位」のクオリティだったではないか!
 だいじなことは、その教育を受けた大人たちが、格差の中でほんとうには幸せではない就労生活を送り、不機嫌な顔をして電車に乗っている、そんな今の日本国民であるということだ。

 ハイ・クオリティの教育であったはずが、大洋と大空に放射性物質をいっぱい撒き散らす文化を築いた。
 「この教育を受けた子どもたちが大人になる未来は明るいと思います」という、その‘心情’は理解できるが、そこにはまた、無思考が焼き付いている。

滋賀県知事選報道、その他…。

 ‥‥これは、私のバイアスのかかった感触から言うのだが‥‥

 先日の滋賀県知事選挙で、自民・公明・維新の会の推す候補が、嘉田前知事の後継を訴える候補に敗れたことの報道が、テレビニュースでの露出において、ちょっと異様なほど少なかったような‘気がする’。
 週明け月曜の各ニュース番組とも、「昨日のニュースの一つ…」とでもいうように軽く扱い、できれば視聴者に伝えたくないな、といわんばかりの雰囲気だったような。

 さすがにNHKの《時論・公論》では取り上げたが、直前の《ニュースWEB》ではほとんど触れなかったのでは?

滋賀県知事選挙

 いっや、ヘンだ。ヘンすぎる。安倍政権のご機嫌に逆らうようなことは一切するまい、というような雰囲気が見え見えである。

 ニュースや報道バラエティにとって、昨今、これまたヘンなオジサンたちが全国で続出しているのは、もうありがたくてしようがない話だろう。

藤原容疑者、野々村元県議

 とくに女児誘拐監禁犯などいじりたい放題で、いじっていれば視聴率を稼ぎつつ時間が潰せる。

 もっとも彼らは彼らで、危険極まりない、あるいはトンデモな不道徳漢であることは間違いない。
 が、有権者数110万人、投票総数55万票という大勢の民衆の意思の選択は軽くスルーし、突出したヘンなやつの報道にはめちゃくちゃ血道を上げるという姿勢は、えらくオカシく感じられる。

 ‥‥まあ、私個としては、トンデモなビヘイヴィアをやらかし続けても、高額の歳費を得る選良というのも、また、どんな仕事をしていたかわからない誘拐犯が、1,000万円もかけて立派な自宅の改装をしていた、なんていうのも、彼らよりはそうとうマトモだと思う(あれ?)私が、もう死にかけているのと対比して、全く不条理に感じることではある。

 誘拐犯、49歳。号泣元県議、47歳。みんなええ歳である ― 佐村河内守氏も同世代!

 号泣県議、野々村クンのほうだが、彼がすぐさま兵庫県議会から刑事告発されたのは、明らかに彼が大政党に属していなかったからだ。
 自民党所属だったら、東京都議会のヤジ調査の件のように、様相は違っていただろう。
 ちなみに彼が卒業している北野高校は、関西では知る人ぞ知る名門進学校である。

ハリポタと英国生活保護

 閑話休題。
 「ハリー・ポッター」シリーズの作者、J.K.ローリングが、生活保護を受給しながら作品を書いていたことが知られるが、このことに関して、わが国と英国の福祉を論じた記事が、Yahoo!ニュースにあった。

 内容は見ていただくとして、記事へのコメントが落胆もの。
 ここのコメントは、Yhaoo! ‘JAPAN’ IDではログインできないので、私は書き込めないのだが‥‥

 まずひとりが、「駄文」と切り棄てている。
 次に、「釣本 直紀」という人物 ― この名前/HNは他でも見かける ― が、さも事情を知って記事の浅薄さを批判するように、データを多くあげて、記事中の研究者の言説を「空想」という。

 記事中、イギリスでは昨今のわが国のような「生活保護(受給)バッシング」は、ないという。
 これに対して、「釣本」氏は、「これは嘘だ」という。

 「釣本」氏が言うように、キャメロン首相が生活保護の抑制に乗り出していることは事実で、「英国の生活保護制度は「本来の道を外れ、ライフスタイルにおける選択肢の1つと化している」」と言って削減に着手(昨年4月)したそうだ。

 イギリスであっても、納税者の視点から、生活保護受給への疑念・不満が起こるのは、ある意味あたりまえの話ではないだろうか。
 記事中の研究者が、イギリス人は福祉に理解が深いから、生活保護を湯水のごとく支給してもだれも不満を感じない、という議論をしているというなら、これは読解力ゼロ、かつ無思考である。

 問題は、その前提になる支給条件や請求〜支給実態の現状と、さらにその根にある‘理念’なのである。
 唐鎌氏の指摘でとくに重要なのは、「福祉は、特定の対象者だけを救う「選別主義」ではなく「普遍主義」にする必要がある」というところ。
 コメント投稿者は、いずれもこのことを全く理解していないだけでなく、読んでいない。

 『ハリー・ポッター』がどうたら、という話は、むしろ刺身のツマであって、その点で唐鎌氏がこのエピソードを使ったのは、「釣本」氏がいうように、ちょっとミスリーディングでもある。
 J.K.ローリングが生活保護を受給していたことを不快に思うイギリス人は一人もいない、などと思うほどアホな人はどこにもいないだろう。

 しかし、こうした「理念」面には、わが国の一般人は、かなり高い教育を受けた人でも全然思いを致さないほど無思考なのだな、と実感して、ほとほと情けなくなった。

松屋が、ガラガラ…。

 いっや〜、シンドい~~;。シンド過ぎ。
 先週、なんとか3件めのハローワーク紹介先の面接にこぎつけることができ、先方も当方もフランクに話し合い、じつにいい感触だった‥‥時給は低い~~が。

 書いているように、今年は仕事がガタ減りで早く帰宅する日がほとんどだ。
 今まで午後11時前に駅を出ていたものが、午後9時過ぎに改札を出ている。

 そこで駅前の《松屋》の店内を覗くと、ガッラガラである
 夕食には遅い時間帯でも、お腹を空かせた若い勤労者が牛めしやカレーをかっこんでいくのが松屋の日常‥‥だったのが、4月以降ガッラガラな日が多い。
 土曜日の21時40分ごろ通った時はそこそこ入っていたが、以前はもっとずっと混んでおり、最寄り駅前の店舗は、それで広い店舗に乗り換えたのだったが…。

 今の私の状況では、松屋の定食などとても食べられるものではない。せいぜい370円の〈オリジナル・カレー〉が精一杯だが、それだとレトルト・カレーのほうが安くて合理的だ。

 このところ、有効求人倍率が十数年ぶりに急上昇したことがニュースで喧伝されている。
 外食産業中心に‘人手不足’によるトラブルもいささか‘喧伝演出’っぽく報道されていて、〈松屋〉と同じく和食ファストフードの〈すき家〉で、店舗クルーの退職などによる閉店や一時閉鎖が起きているのはほんとうだそうだ。

 地元の〈松屋〉の閑散ぶりとは対照的に、ビジネス街の和食ファストフード・チェーンの客は増えているのかもしれない。

 思うに、これまで〈大戸屋〉や〈やよい軒〉を利用していた層が、消費増税後のプライスアップと、実際の収入は決して増えてこない現実から〈松屋〉や〈すき家〉に移ってきた。
 他方、私の地元のようなところは、帰宅途中の客が利用していたケースが多く、そういった人たちは、〈松屋〉ですら外食はせずに、家に帰って自炊、あるいは「中食」という形で食事をするようになったのではないかと ― 私がそうだから、ということもあるが ― 推測する。

 有効求人倍率報道に関して、こちらなどが批判しているように、実際に成約していなのは、「採用する気がない求人」が多いからだ、という。

 そして、〈すき家〉の場合のように、過酷な現場で時給労働してくれる非正規ばかり求める求人がいっぱい出ても、これも求人倍率を上げることになる。

 そういうことなのである ―。
 企業は、低時給・非正規・高密度労働なら、いっくらでも働きに来てほしいのである。

 上記リンクは、日経新聞記事の執筆姿勢について、「中身の分析を全くせず、何のチェック機能も果たさない「政府の広報誌」に成り下がっている」、「「人手不足社会」を必死にアピールする政策当局と日本を代表する経済紙。その根底にあるのは、現実には程遠い「経済の好循環」の演出であることは想像に難くありません」という。あまり筆鋒が鋭くない感じはするが、こういうことだ。

あの件は、どうなっちゃったの?

 また3月11日がやってきた。
 このところ失業状態で昼夜逆転、CDプレーヤーの改造にも手を着けかねてぼんやり無為に、しかし出費だけは抑えに抑えて過ごしている。

 この日の前後は、どのテレビ局も東日本大震災被災地からの取材映像に満たされている。
 11日は、午後2時には起きて、その時刻には仏壇でお経でもちょっと唱えてからメシを食おう(最初のメシは、ピザトースト1/2枚と、小さいアンパン、それにチョコレートくらい…)かと思っていたが、眠くて眠くて、午後5時までフトンを出られなかった。

 被災地の現状を、いくら突きつけられても、自分の暮らしすら崩壊しそうな者には何もできない。
 「風化させない」という姿勢には賛成だが、それを具体的に「私が観る」という行為に、もうあまり意味が感じられない。
 というわけで、寝ていた ―。

 「風化」ということを言うと、もう全くメディアに出てこない、しかしどのように考えてもこの上ない重大事だと思うことが、やはり以前書いた時と同じく、二つある。

 ひとつは、SPEEDIの件。もう、どんな報道番組にも「ス」の字も出ない。

YouTube、小出氏

 小出裕章氏の言が、YouTube上にあり(上画像は、動画サムネイルではなく単にリンクです)、やはりこういうことなのである。
 やはり今後も SPEEDIのデータは、米軍には知らせて国民の避難には使わず、かつ巨額の予算はつぎ込み続けるのだろうか。

 それから、原子力災害対策本部等の議事録がなかった、という問題。

議事録なし。asahi.com

 こちらは、民主党が政権の座から転落してしまったので、取り上げる意味がなくなった、と言えば言えるが、それはとんでもないことだと思う。

 こちらの記事(磯山友幸氏:日経新聞出身の経済ジャーナリスト)には、この「隠蔽体質」は「民主党政権の「体質」あるいは「情報に対する考え方」とも言えるものが根底にある」とある。
 あの時の議事録は、「あるけれど隠している」、あるいは「作成したが破棄した」と見る人は、大勢いるのではないか。

 では自民党・安倍政権はそのような体質ではないのかというと、民主党に輪をかけて強権的な印象は明らかだが、民主党は災害対策も杜撰だった、経済も復活させられなかった、その上に「知らしむべからず、拠らしむべし」…これもある種強権的性格なのだから、まだそれなら経済を建て直してくれる安倍政権のほうがずっとよい、となるわけで、民主党が今後、再度有権者の支持・好感を得ることは、不可能に近い。

 そうなると自民党や保守系野党はやりやすいことこの上なく、これはたいへん危険‥‥といってもしようがないほど、国民の支持を得ている。

 被災地の映像ばかり、いやというほど見せられて思うのはこんなことだ。
 少なくとも上に挙げたことどもは、民主主義の根幹に関わることがらだと思う。
 こういったことは、もはや、それこそ過ぎ去ったこととして、「風化」して当然というような報道の姿勢は、「民主主義の根幹だから触れないんだ」とでも言わんばかりだ。

 それより、ひたすら被災地の「物語」を綴り、演出し、それで画面を満たそうとする。
 そのひと幕に、あの佐村河内 守氏がいたことを、憶えておいていいだろう。

佐村河内物語

佐村河内 守:交響曲《HIROSHIMA》
 佐村河内事件。
 いっや〜、オモロい^^。

 この人の“物語”そのものは、ウソでなかったなら、“物語”そのものに加えて大勢がこぞってその“物語”に陶酔し、讃美し、感動することにイチャモンをつける筋合いがなかった。

 いや、この「イチャモンをつける筋合いがない」ことも、少なからずちょっと違和感があったのだが‥‥。
 そして、「ウソでしたぁ〜」ということになれば、上の《違和感》が、圧倒的正当性をもって表てに出てくる。

 “物語”がほんとうだったにしても、あの風貌と、放送局(=とりもなおさずNHK!)やレコード会社の作り上げるイメージは、異様だった。「キワモノ」臭が鼻をついた。

BLOGOS 新井氏記事

 新井克弥という人が、〈BLOGOS〉上に寄せている記事では、ことの本質を
・メッセージ1=楽曲自体
・メッセージ2=“佐村河内物語”
の二つに分け、ウソの発覚で人々が不快に感じるのは、「メッセージ1」に感動していると思い込んでいたものが、実は「メッセージ2」に感動していたことに気づいて不快に陥った、と説明している。

 新井氏の分析はたいへん明快で異論の要もないと思う。
 ここで重要なのは、「メッセージ2=佐村河内物語」がウソであったから不快になった、というより、新井氏のことばを借りれば、
「「HIROSHIMA」が世間に知れ渡ったのは楽曲それ自体よりも、「佐村河内」というメディアのメッセージ性に基づいたから」であり、「自分が「新垣」=メッセージ1を聴いて感動していたとばかり思っていたのが、実は「佐村河内」=メッセージ2に感動してメッセージ1を聴いていただけ、つまり間違って聴いていたということ」に気づいて不快感を覚えた、ということなのである。

 そう。どれだけ大勢の「佐村河内ファン」が「音楽」ではなく、「物語」を楽しんでいたか、ということだ。

 米誌が、彼の“物語”を「現代のベートーヴェン」と紹介したのは、全聾という彼の設定がベートーヴェンと呼応するという意味でだっただろうが、それだけでなく、ベートーヴェンが、音楽よりもむしろ、その人の物語によって尊敬される作曲家であることが含意されていたはずだ。
 で、これはわが国でとくに濃厚・顕著なファクターなのである

 けれども、ベートーヴェンの楽曲と、その“物語”との関係は、あくまで楽曲(群)が先行する。
 例の《月光》ソナタの逸話も、「運命が戸を叩く」の“物語”も、「ハイリゲンシュタットの遺書」の意味も、彼の「楽曲」の説得力を、同時代のヨーロッパ人が耳で聴いて認めたのちに派生してきたことだ。

 佐村河内氏は、これを逆転して、“物語”を先行させて大儲けをしおおせたのである。
 ここには、「楽曲」よりもまず「物語」だ、というわが国の音楽享受の、一種、“伝統”が与って決定的に機能している。
 音楽家の身体的障害や「不遇」と、それを克服して美しい音楽を奏で、それが認められる、という“物語”、これが何よりも味わわれ、感動され、讃美される。

 今回の件で鮮明に思い出したのは、『はてしない物語』におけるミヒャエル・エンデのメッセージだ。
 『はてしない物語』は、ファンタジーの世界=「ファンタージエン」と、それに関わる主人公たちのお話である。

 「ファンタージエン」は、いつしか「虚無」に侵食されはじめる。ファンタージエン内の住人たちは「虚無」に呑み込まれ、私たちの「現実」に流れ込んでくる。
 虚無に呑まれて現実界に流れ込んだファンタージエンの存在は、どうなるのか。

 作中、ファンタージエンの住人で主人公の一人でもあるアトレーユに、同じくファンタージエンの存在・人狼グモルクがこの事態を語る件りがある。

 グモルクがアトレーユに聞く。
 「おまえ、虚無を見たことがあるかい、ぼうず?」
 アトレーユは、
 「何度も見た。」
 「どう見えた?」
 「盲(めしい)になったようだ。」
 「うん、そうだろ。― そこでだ、おまえたちがその中にとびこむと、そいつがおまえたちにとっつく、その虚無がだぜ。おまえたちは伝染病の病原みたいになって人間どもを盲目にしちまう。やられた人間どもは見かけと現実の区別がつかなくなる、とこういうわけだ。あっちでおまえたちのことをなんて呼んでるか知っているか?」
 「知らない。」とアトレーユは低い声でいった。
 「虚偽(いつわり)だよ!」グモルクは吐きだすようにいった。

(『はてしない物語』上田真而子・佐藤真理子訳、岩波書店、1982年、200頁)


 この前後の、「虚無」と「虚偽」についてのアトレーユとグモルクの対話には、まことに尽きない意味・示唆がちりばめられていて、ここ十数年の日本社会を考える上にも味わうべきものがある。
 エンデとその代表作の、じつに端倪すべからざる(← この表現、やや本来の使い方とズレるので、訂正。3.16)測り知れないものを実感するが、“佐村河内物語”にどっぷり浸った人は、まさにエンデのいう「虚偽」の毒に侵されていたのだ。

 重要なのは、この(本来の意味での)「物語」をグモルク=エンデのいう「虚偽」に変換することによって、むしろ大勢が「感動」し、「夢」を育み、生きることの糧にしているのが現今の日本社会だ、ということだ。
 この「虚偽」は、内容が事実であるか虚偽であるかは、この際問題ではない。

 佐村河内事件は、モロの「虚偽」であったゆえ、まさにエンデの警告が容赦なく的を射た形になった。
 東日本大震災以後、世は、真偽を問わずこの種の「物語」を喧伝し、「絆」を連呼することを美とし、正義とすることに腐心し続けてきた。
 むしろこの風潮に異を唱えることを圧迫的に禁ずるような雰囲気が固まりつつある。

 そのいっぽうで、日常的に老人たちが「オレオレ詐欺」に遭い続けている。
 被害者たちは、むしろ積極的に犯人の作り出す“物語”に乗ろうとしているかの如くだ。

 もう削除されていると思うが、CDの発売元・日本コロムビアがYouTubeに、かのNHKの制作した特番の映像を使ってだったろうか、“感動的な”Vをアップしていた。
 そこでは、指揮者やヴァイオリニストが、楽曲のすばらしさを讃えていたけれど、演奏に当たって、作曲者に具体的に表現や奏法を ― 手話通訳を介してでも ― 直接質すことはなかったのだろうか、という疑問は強く残る。

 NHKは、原子力発電の過去と原発の現在を、憚ることなく伝える姿勢を示していて、それはそれであっぱれなのだが、“佐村河内事件”の責任は、どう取るのかわからない。

 原発被害報道も、じつは「あと出しジャンケン」であることも、受信料を払っている視聴者は忘れてはならない。
 NHKが、いかに憚ることなく、これまでの原発行政・原発運営の問題を報道しても、そのことによって故郷に帰還できるようになる避難者は、たったのひとりさえもいないのである

 さて ― 最後はジョーダン。
 オーディオ機器に手を入れ、あるていど納得のいく音が出るようになると、私はシンフォニーを大音量で鳴らし、・私が作曲者でもなく、・私が演奏者でもなく、・私がマエストロでもないのに、スピーカーに向かって得意になって指揮をしている^^。
 最近はこれを、「サムラゴーチル」という動詞(ラ行五段活用でもタ行上一段活用でもOK^^)で表現しておりまス。

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