参院選の争点‥‥?

 今度の参院選の「争点」は、一見「ない」ように見える。

 ‘アベ政治を許さない’サイドの人たちの勢いはそうとうなもののようだが、大衆は現・自民党政権の、いわゆる「アベノミクス」にも、防衛・改憲などへの動向にもあまり不満も異議も感じていないみたいなので、このまま与党大勝の方向に行くのかも。

 が、多くの有権者の暮らしに関わってきそうなところで、あれれ? な問題が出来している。

・年金の損失発表延期
 GPIFによる年金の運用について、2015年度の運用成績発表が、例年の7月第2〜3週より半月ていど延期して、参院選後になるのが確実な7月29日となったという件

 発表内容は、5兆円近い損失らしいというが、この損失への非難に対して、《ビジネスジャーナル》サイト上の「国の年金運用で5兆円損失、「失敗だ!」批判は間違いである…年金危機説のウソ」という記 事(大江英樹氏執筆)が反論している。

 いつもいろいろなことを学ばせてもらっているこちらのブログこの記事に、ちょっとコメントで茶々を入れさせてもらったところ、リコメで、元GPIFメンバーだった小幡 績氏のブログ記事に同意する旨の示教をいただいた。

 小幡氏は、「損失自体は構わない。‥‥問題は、結果の公表を遅らせていることだ。あるいは遅らせていると思われていることだ」と言う。
 今回の問題が、「損失」よりも「発表延期」のほうにあるということは、私は知らなかった。

 加えて、上記ブログのリコメにて、《東洋経済オンライン》サイト上の「巨大機関投資家GPIFは「危機的状況」にある」という寄 稿(近藤俊介氏執筆)が参考になる、と教えていただいた。

 こちらでは、単なる損失が問題なのではなく、現在、株価下落と資産売却がパラレルに進行せざるをえない状況にあり、それは、2014年10月の「基本ポートフォリオの変更」における運用資産内容比率の変更に大きな問題があった、という指摘をしている。

基本ポートフォリオの変更

 画像は、GPIFのPDF文書「年金積立金管理運用独立行政法人の中期計画(基本ポートフォリオ)の変更」(URL:http://www.gpif.go.jp/operation/foundation/pdf/midterm_plan_change.pdf )から。

 いちばん先にあげた大江氏の論考には、こういうことはツユほども入っていない。
 この辺が、政権の年金運用に関する参考資料として用いられるべきだろう。

 イギリスの国民投票の愚挙を笑う日本の有権者が、参院選のあとの年金運用成績発表を見て、「しまった!」と思わないことが肝要、だろうか。

・自民党憲法草案の「家族条項」
 5日の《荻上チキの Session-22》(TBSラジオ)には自民党・平 将明議員が出席して、自民党の見解を述べていた。
 この時、終りのほうで、自民党の改憲草案に触れて、この時点から電話で参加した木村草太氏の質問に答えていた中、同草案の「家族条項」について、平氏はかなりはっきりと「こういうことまで権力に言われたくはないな、と思う」「自民党の会議では、この条項には反対しました」と言っていた。

 番組サイトのこちらで、録音の配信がまだ聴けるだろうか‥‥1時間8分のうち、終わりのほう6分間くらいの部分である。

自民党草案-家族条項

 自民党の改正憲法草案には、いわゆる「日本会議」が目ざしている、あるいは基底としているようなイデオロギーが、底流として流れていると評される。
 番組では、平氏は「草案ですから」と、ここにいろいろ改訂を加えてよいものにしてゆくつもりだという言い方に終始していた。

 が、「憲法」というのは、部分部分の差し替えが自由にできるというものとは違い、全体としての、「この国家はこうあるべきだ」という「理念」が示されるものだ。
 そこに、こうした条文を盛り込むことは、明らかに「そういう国家を作ろう」という意思の表われだ。

 現“安倍自民党”の目ざすところは、事務的に「集団的自衛権を認めさせたい」というようなものとは質が違い、こういう「復古イデオロギー的改憲」なのであって、それは自民党内の若手政治家にすら疑問視されるようなものなのだ。

 この点では、今回の参院選は、自民党が敗北したほうが、むしろ党内の良心的政治家が台頭できる契機にもなろう。
 集団的自衛権の確立はすでになされている上、このまま「安倍自民党」の勝利をあと押しするなら、「安全な保守」の域を越えて「日本会議的なるもの」に、全面的にわが国を委ねることになってしまうことは間違いない
 そして ― 今回はあくまでも「参議院選挙」であって、政権選択選挙ではないのである。

イギリス、EU離脱…。

 ‥‥‥ここ1週間は、飛び石的だがちょっと仕事がお休みで、プレ夏休み♪
 今日(3日、日)は、9時間くらい寝てもまだ疲れが抜けず、6月の間、睡眠時間は5〜6時間ほどで週6日、仕事に出ていた(だけ[笑])疲労感=充実感が溜まってをりまス。ぷはぁ〜‥‥。

 今日は、夕方になっても、アツい。
 1994年や2010年の夏の暑さがまたやってくるようだと、来春までには地震の少ない国に「亡命」しないといかんではないか! ムリッす〜~~;。
 ※「宏観異常現象」は、必ずしも100%疑似科学とは考えられていない。

 オデオ・ネタのほうは、音がよくなって、聴くたびに「いい音だなぁ〜」と感じることが多く、書くことがなくなってしまった。
 まだ到着待ちのCDはあるので、揃ったら1記事?

ロンドン風景

 衝撃の、イギリスのEU離脱。
 よくお邪魔するブログでも「アホなイギリス人」と惨憺たる論評で、実際「アホ」としか言いようのない結果を呈してしまい、イギリスの政治家から庶民に至るまで、自らの選択の結果に困っているようだ。

 全くアホな選択なのだが、その直撃として株価の下落ばかり挙げるような言説にはちょっと違和感を持ってしまう。
 先日、《荻上チキの Session-22》に出演した「おおさか維新の会」の馬場伸幸氏は、消費の活性化について「奥さんたちが1,000円のランチを食べていたのが2,000円のランチを食べるようになる」などという例話で示していた。
 チキ氏がすぐ「2,000円のランチってそうとうなもんですね」と突っ込んでいたけれど、こういうところに、お里が知れるというか、その人物の素の感覚がポロッと出て面白いが、この人はアカンなぁ、と実感した。

 さてイギリスの話であるが ― 今回、離脱を誘導・促進した「ポピュリズム」には、排外主義が大きな要素となっていることが指摘される。
 イギリスを始め、欧州諸国とはケタ違いに移民を排除した状態を堅持しているわが国で、このことをリアリティを以て考えることはかなり難しいだろう。

 比喩として、たとえば、私が仕事でよく行く吉祥寺の「サンロード」商店街には、中国人の観光・買物客がモノスゴく大勢カッポしていて、元気にショッピングを楽しんでいるが、さすがに周囲があまりに大勢の中国人ばかりだと、ちょっと違和感が出てくる。

 そして、こういうことがらを、イギリスにおける移民の激増状態を想像する素材にしていいかというと、それは100%とは言わないものの、85%くらいハズレではないかと思う。

 では、どういう比喩で考えればいいかというと、たとえば自身の子どものクラスメートの6割が移民であるような状態。
 あるいは、町内会のメンバーの4割に、自国語が通じないという状態。
 ― こういうことを基準に考えないと、欧州における移民の増加が‘原住民’に与えている感覚はわからないのではないか。

 排外主義に関して言えば、自分の子どもが、クラスメートの親のテロ行為によって命を奪われても、なお「排外主義」に傾かずにいられるか、というくらいのレヴェルで「問われて」くるのだ。

 今回の英国の国民投票で離脱に反対した48%のうち、いくらかはそういう「問い」を乗り越えての判断なのであったと思われるし、あの9.11を経験したアメリカ人の中にも、こういう過酷な「問い」に直面した人たちがいる、ということは、私たちにはなかなか想像しがたい。

 唐突な喩えになるけれど、この点ではむしろ、海外・隣国に「侵出」の触手を伸ばしていた、戦前の日本を思い浮かべたほうが、より近いのではないか。
 たとえば「満州国」。
 「支配者側」であるとはいえ、周囲には「異国語」しか話さない、移民ならぬ「異民」が大勢、場合によっては同邦人より多くいて、中には日本人に危害を加える可能性のある人もいないわけではない、という状況で暮らしていた日本人のほうが、安全極まりない「爆買い中国人」やお酒も飲まず行儀のよい「出稼ぎムスリム」くらいしか目にしない現代の日本人より、今の欧州の感覚は理解しやすかったのではないだろうか、と考えたりする。

 そうではあっても、この時代の我われの先輩たちは、「八紘一宇」の幻想的アジア融合イデオロギーの破綻とともに、「暴支膺懲」の排外的侵略にひたすら突き進み、1945年の夏を迎えたのだった。

 英国のEU離脱という愚挙を「アホ、バカ」呼ばわりする時は、同時に、こちらももう80〜90年来、日本の乾の方向に存する国をすらあんまり笑えないくらいの「バカ」度にあることを、ちょっと思い出しておくべし。

署名したり、など…。

安保法制反対の署名
 土曜の正午前、出勤の電車に乗ろうとする駅前で、都教組の人たちが「戦争法反対」の署名をしていた。

 だいたいこういうのは通り過ぎるのだけれど、若干時間があったのと、「政党」が主体ではなかったのとで署名した。

都教組ビラ

 安保法制については、改訂の要不要に至る以前に、立憲主義との関わりにおいて、および、今回の場合の成立の状況とが、あまりにも異常なので、そのこと自体がまずマトモなデモクラシー社会のやることではない、という判断は持っているので、署名の趣旨の、とくに立憲主義との齟齬には異論がない。

 加えて、最近の政権党のメディアへの姿勢にも、アンチ・デモクラシーの猛毒を恣いままに撒きちらしたいという欲望が、あまりにも自制なく見え過ぎるので、それへの反対の意思も込めてである。

 署名集めをしているのは、かなり高齢の男女で、都教組なのだから、たぶん現役の教員か退職者たちだろう。
 署名したボードを持っていた女性と、ちょっと話してみた。
 当方が、とりとめなく、返事・反応しにくいことをしゃべりだしたためだろうけれど、その婦人はあんまり話はしたくなさそうで、こちらが「この問題に関しては、双方が有益な議論をほんとうにしてこなかったですねえ」旨のことを言っても、「はあ、そうですか…」的な反応だった。

 団体の一員としては、あまり踏み込んだ対話、あるいは個人の見解や感情を述べることはしないほうがいいという判断をお持ちだった、ないし上からの指示があったのだろうか…。
 どうも反応がイマイチだし、電車の時間も来たので、立ち去った。

バス車中の窓開閉
 金曜の夜の帰宅のバスでは、多くの窓(上部のみ開閉可能)が開け放たれており、その上に冷房もかけていたので、冷風が外から吹き込む風で、びゅうびゅう顔に当たってくる。

 一人のサラリーマンは、各席の上部にある冷房の噴出口のノズル調性が悪いのか、と触っていたが、外気の流入が原因なので変わらないとわかるや下を向いてしまった。
 そうとう頭髪などを吹かれていたと思うのだが、開いている窓の下に座っている客、立っている客も、誰一人として窓を閉めない。
 その1枚のうしろの席があいたので、そこに移動し、前の客に「閉めてもいいですか? 風がきついので」と許諾を求めてから、閉めた。

 終着停留所に着くまで、ほかの窓はあいたまま、びゅうびゅう吹き込む風は冷たいわ、窓吊りの広告ビラは音をたてて翻るわ、の状態のままだった。
 こういうことがら、一般の大多数の人びとは、ほんっっと〜に、何もしない。徹底して、何もしない。テコでも動かない。

 終着停留所に着くやいなや、私はあいている窓のほとんどを手荒にバタン、バタンとしめてから降車した。

 健康食品などには、疑似科学であっても広告を追いかけて求めるのに、「今の、自身の身体感覚」には、驚異的に反応しない。
 これこそが、みんな‘健康オタク症’でありながら生活習慣病がどんどん増える根源のように見える。
 まあこれは、実際には私の座っていた後部席だけに風が吹きつけた ― バスの車体ではそうなりがちなのである ― のかもしれないけれど。

 両方とも、選挙の(期待の反対の)結果を占うような、というより、占うまでもないという現象に、感じられた。

JR回数券サービスの大改悪

 新学期、1冊目の回数券を使い切った。

 4月になって、JRの回数券を券売機で買おうとしたら、「回数券」のメニューがなくなっていた。

JR新回数券

 うろうろ見ていると、指定券販売の券売機だけで売るようになっていた。
 ボタンを押してオーダーすると、「問い合わせています…」というメッセージが出て、ホストコンピューターと連絡する時間がかかっているのか、という遅さ。
 発券も、遅い

 鉄道の普通乗車券は、回数券も含めて、すぐ発券され、しかもゆっくり釣銭を確認したりしていると、JRの場合だと20秒で券売機が吸い込んでしまう。
 釣銭の確認・財布への回収を、高齢者などがゆっくりやっていることができないような、ユーザー・アンフレンドリーさの極みだ。

 この他にも、鉄道のユーザー・インターフェイスは、客の立場を無視して鉄道側のやり方をゴリ押しするものがいっぱいある。
 高田馬場駅の、西武線とJRとの乗換え改札では、ICカードの引落し額・残高の表示が、健常者でもその場で見えないほど小さい。
 相互乗り入れで便利になる私鉄は、乗り継ぎ切符の発売が面が、とくに高齢者などにはわかりづらいそうだ ― 近鉄奈良線に乗り入れる阪神電車の券売機について、関西の人から聞いた。

 つまり、処理が速すぎるのも遅いのも、どちらでも、不便でも、オレたちのやり方を受け入れろ、というわけである。

 さて、このJR回数券発券サービスの極端な改悪だが、もちろんすでにネット上では上がっている。
 こちらはニュートラルに紹介するだけで、批判はない。
 こちらは、嫌悪している。言わずもがな、こちらに同意だ。

 一般券売機で売らなくなっただけではなく、サイズが大きくなったので、定期入れなどのポケットをひとつ占領してしまう。以前の、私鉄と同サイズのものなら、1ポケットに私鉄のものと2冊入って、取り出しもしやすかった。

 もっとも、利用者の高齢化などで、大きなサイズのほうが扱いやすいという面も全くなくはなく、そういう要望はあったかもしれない(JRは間違いなくそう言うだろう)が、どう見ても改悪なのが、表紙を別途発行するようになったこと
 ただでさえサイズが大きくなって、紙の量が増えることで、エコに逆行するのに、さらに意味のない表紙を付ける。
 いったい、どのような思考なのだろう。

 これは明らかに、JRからの「回数券は使わないで、1回ごとに普通運賃を払ってください」というアピールだと取れる(取る以外に解釈のしようがない)。

 この新回数券を買った日、立川駅の案内で、「券売機の制限やサイズの巨大化は不便極まりない。しかもこのサイズだと、国分寺での西武線との乗換え改札では、通らないんじゃないか?」と聞くと、スタッフは「はい、申しわけございません、通りませんので、一度改札を出てご利用ください」とのたまった。
 ところが、2枚を重ねて通してみると、受け付けた。つまり、この新回数券がどうなっているのか、スタッフにも情報が共有されないまま変更してしまっているのである。

 今まで、JRの回数券で買物などに出かけていたみなさん、JRは「乗ってほしくない」ということですから、他の移動手段に乗り換えましょうね。

バター問題。

バター

 アベノミクスや安保法制や、あるいはTPPや、いろいろ言われる中で、気になるのだが、別個に報道されるだけで、有機的にからんでこないハナシ ‥‥ バターのハナシ である。

 店頭でのバター不足が言われ、実際にもスーパー店頭でバターが品薄 or 常時品切れ状態にある。
 その埋め合わせに、おもにトーストに付けるための、マーガリン系の「ファットスプレッド」の類いが多品種、積み上がっている。

 ここで気になるのは、マーガリンは健康に有害性があるといわれるトランス脂肪酸を、バターの2〜8倍くらい含んでいるらしいこと。

 マーガリン系のものは、商品によって含有量/率が違うので、一律にいえないが、これほどバターが不足して、その反面でマーガリン系の商品がスーパーに山積みになっていて、それが問題にされない(されているのかもしれないけれど)のは、オカシい。

 バター不足は、よく知られる『BLOGOS』内のこちらの記事では、高い関税で国内の零細酪農業者を保護してきたことに原因があり、競争力を弱めてきているのだから、TPPにも参加して、競争力を高めなくてはならない、としている(ように読める)。
 東大の農学系の研究者の執筆なので、評論家の恣意的な言とは違うのだろうが、BLOGOS記事に時折り感じる違和感を感じる。

 こちらの記事は、『長周新聞』という、ある種の信条に基く(人によっては「イデオロギー」に見えるかもしれない。私には BLOGOSより好感を持てそうだ^^)サイトの1ページなのだが、国内の酪農業者‘潰し’の政策が、今日のバター不足につながっていて、こういう流れは国民の食料供給全体に危機をもたらしかねない、と言う。

 上の記事はTPPには反対の立場なのだが、北海道で乳牛の獣医をしているという人のブログ記事では、アメリカのトランス脂肪酸規制は、バターの日本への売込みを狙うものとも言え、かつアメリカの牛乳は、品質的に「汚い」と言っている。
 もちろんTPPにも反対の立場だ。

 この人の立場の利害、というものも読み取れるけれど、牛肉におけるBSE管理のみならず、アメリカ産の食品の安全クオリティを考えると、単純に輸入を増やせばいい、ということでもないのである。

 こちらは、バター輸入を「農畜産業振興機構」が独占していることを非難し、輸入を自由化するとともに、国内業者の保護も付記している。

 この問題は、農協や農畜産業振興機構といった組織の利権がからんでいる、ということも無視できない。

 こういった問題は、プラカードを掲げてデモ、という話題ではないだけに、あまり考える対象にならない ― 単に「バター、売ってないね」とか「トランス脂肪酸、コワいみたいね」なら話題になるが ― けれど、こういう部分に、国内政治・国際政治と、「国民の生命の安全」の関わりがあるはずだ。

 個人的には、今はパンにバターを付けて食べたい嗜好はあるので、手に入る時にバターを買っている。
 マーガリン系のスプレッドは一切買わないけれど、コンビニやスーパーの「厚切りバウムクーヘン」などを常備して、デザートにパクついている小生は、すでに相当量のトランス脂肪酸を含む脂肪分を日々摂っているはずだから、これ以上の油脂分はで〜っきるだけ控えたほうがいいのである;;。

安保法案可決…。

 ‥‥何だか書きづらい雰囲気漫々‥‥で、例の‘安保法制法案’が参議院でも可決したらしい。
 テレビは2月真ん中に廃棄したので、情報源はネットとAMラジオ・TBSの《荻上チキの Session-22》だけである。

 いつもよく拝見する Hatenaブログから知った、同じく Hatenaの、gudachan氏のブログをよく見る。
 Gudachan氏は、安保法制には反対、いわゆる‘ネトウヨ’への鋭角的論難記事が多く、それでいて左翼ではなく、そしてある意味、ガッチガチの古典主義的教養主義者、とお見受けする(← この点には、違和感が皆無ではないものの、基本的には同感・敬服している)。平成生まれだそうだ。
 連日の SEALDsの動向などは、こちらで読んでいる。


 で ― 私個人は、安倍政治にはかなり不快感を持っているけれども、SEALDsといっしょになったりして「戦争法案反対!」と叫ぶ、という気持ちにはなっていないのが正直なところだなのだ。

 まとまったことは、書けない。
 昨今のネット情報などからの、印象だけ。
 といっても、ネット空間というのは、政治がらみのことになると、反対の立場の人、反対意見の論者をバカ呼ばわりしないとネット・ユーザーではないかのごとくで、バリバリの罵詈だらけの醜悪腐臭空間にならないほうが難しいので、‘ちゃんと’考えられる資料が少ない。
 そもそも、「安全保障」というトピックそのものを、(可能な限り)客観的に見る資となるサイトは、ほとんどない。
 いや、これは出版界も似たり寄ったりかもしれない。


 さて‥‥この「集団的自衛権」なるものであるが、《荻上チキの Sesion-22》にもよく登場する、憲法学者・木村草太氏の「日本の安全保障を考える」(SPUR.JP内)が紹介している、柳澤協二『亡国の集団的自衛権』(集英社新書)の、Amazonレビューの中に、「1951年に日米両政府間で取り交わした日米安保条約と71年に継続した同条約の前文を知らぬ訳はあるまい。/この前文には、我が国は国連の定義するところの集団的自衛権を有すると明記してある。/この人の目は節穴か、それとも何を今更、寝言をおっしゃっているのか?である」という非難文言が見える。

 そのとおりで、「日米安保条約」前文には、「両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し」とある。

 ほほう、すでに55年前に「集団的自衛権」を認めているではないか、ということになりそうだが、当該レビュアーとほぼ同じ論旨で今般の集団的自衛権を「問題なし」としている(そうな)東京新聞論説副主幹・長谷川幸洋氏に対し、こちら(宮武 嶺氏ブログ記事)が、同条約「第三条」に「締約国は、‥‥(中略)‥‥それぞれの能力を、憲法上の規定に従うことを条件として、維持し発展させる」と明記されることを示して、反駁している。

 こういったところを確認すると、上記Amazonサイトのレビュアーの「寝言」は、わが国Amazonサイトのレビューのレヴェルを象徴的に示していて、面白いと同時に、暗くなってしまう。

 ここで、まさに「憲法上の規定に従うことを条件として subject to their constitutional provisions」の「constitutional provisions」を、この文言があるから集団的自衛権は違憲である、とするのが反対派であり、「constitutional provisions」には「〈違反しない〉という解釈が成立しうるから、違憲ではない」とするのが政権側、ということになる。

 《荻上チキの Session-22》への出演で聞いたことがある、(ちょっと)美人の政治学者・三浦瑠麗さんのブログ《山猫日記》の「集団的自衛権論争の本質」は、一見、「安全保障」に関してニュートラルな知見を得られそうに感じて読み始めたのだが‥‥。

 この説は、「集団的自衛権をめぐる論争の本質を理解するには、大きく三つの領域で物事が進行しているという状況認識を持つことだと思っています。一点目は、安全保障の領域、二点目は憲法解釈と立憲主義の領域、三点目は感情的化学反応の領域です」と、わかりやすく(?)議論を腑分けする。

 その中で、「憲法解釈と立憲主義」の部分では、反対派の中に「安全保障上の必要性については言明せずに専ら手続論の観点からする批判と、安全保障上の必要性に対して法解釈の観点から反論する論理的には支離滅裂な、それでいて戦後日本の知的伝統からは正統な批判とがあります」がある、という。

 ここには「安全保障上の必要性については言明せずに専ら手続論の観点からする批判」「安全保障上の必要性に対して法解釈の観点から反論する論理的には支離滅裂な、それでいて戦後日本の知的伝統からは正統な批判」の2種の批判がある、と読めるが、この内容の違いはよくわからない。
 が、いわゆる‘憲法学者’の発言について、「法解釈の観点から反論する論理的には支離滅裂な」論と断じているとしか読めないところは、とくのその「支離滅裂」という表現に、‘ネトウヨ’の「バカ」と似た臭気を感じざるをえなかった。

 加えて、「「どうどうと憲法を改正すべき」という主張‥‥(中略)‥‥になかなか与する気になれないのは、このような主張をされる方の本音が、立憲主義を方便とした現状維持であるのが見え見えだからです」といい、さらに「このような主張には、立憲主義を方便とした日本の民主主義に対する軽視が潜んでいるように思えます」という。

 三浦さんは、先行する行文で、「憲法解釈を変更するということの意味については‥‥(中略)‥‥どのような政治的伝統の中に存在してきたかということが重要です」としながら、法案等を違憲とする憲法学者たちは、憲法と立憲主義を「方便」として、自分たちの政治的立場を‘現状維持’している、言い換えると、憲法と立憲主義を「人質」としている、という指摘である。

 このうち、「どのような政治的伝統の中に…」という場合、戦争で塗炭の苦渋を飲まされた人びとのことが、まず意識にのぼせられなくてはおかしいが、どうもそういう気配は、この政治学者の言説には、ないようだ。

 ただ、それでも、憲法学者や戦後護憲派が、現憲法条文と立憲主義とを「方便」だというところに、何かひっかかる、言い換えると、単に「憲法を守れ」、「立憲主義を守れ」では済ませきれない部分を感じざるをえないのも事実なのである。

 と同時に、三浦さんに関して、‘とんでもない論客’だという論がネット上にあるのも、見逃せない。

 三浦さんは、全国民が等しく「血のコスト」を自覚して、好戦的国家・国民になることを回避するには、「老若男女を問わない徴兵制」しか方策はない、という提案をしている。

 これに対しては、「ヴェトナム戦争が泥沼化した時代、アメリカは徴兵制を敷いていた」といって、三浦さんを‘危険’と見る「きなこ」氏のブログ記事がある(当然、あるだろう)。

 三浦氏は、‘現実的な’安全保障(の国際的環境)を重視する側と、ひたすら立憲主義を「盾」に取って、憲法と憲法解釈の「現状維持」を固守しようとする側とが、「泥仕合」を繰り返していることへのそうとうな苛立ちがあり、そして氏は、「現実的な安全保障」側に立つ。

 私個人としては、‘わかったふう’に抑止力(抑止目的戦力)の必要性(必要悪)を簡単に認めるということにも大きな抵抗があるとともに、「日本は憲法九条を固守し、一切戦闘機能を保持せず、どの他国とも安全保障上の同盟関係を結ばない」というようなポリシーにも、とても簡単には賛成できない。

 三浦氏は、徴兵制を廃止したシヴィリアン・コントロール下のアメリカが好戦的態度をとったことをあげ、反対に「自らの命や家族の命を懸けてまで倒すべき悪というのは、世の中にそう多くはない」から、老若男女無差別の徴兵制こそが「ナショナリズムを煽るものではなく抑制するものとなるはずだ」という。

 私は、この人が「血のコスト」と称するキーワードを提出していることはきわめて重要なものだと思いつつ、三浦氏自身はこの語を著しく観念的に、つまり単に机上の観念としてしか用いていないようなのが、不満であると同時に不審である。

 もっとも、好戦的な嫌中・嫌韓派には、このような「血のコスト」の‘脅威’が抑止力として働く可能性はあるかもしれない。
 しかし他方で、日本人の中にも ISILの兵士に志願して渡航しようとする者がいたし、外国人への暴力の行使を強く希求する手合いも存在する。
 兵役への実感が好戦性を抑止できるという考えは論理的でも実証的でもないと思える。

 それより大切なことは、何より敗戦直後から現在まで、さまざまな政治的環境の変化にもかかわらず、戦争体験の悲惨さを語り継ぐ人びとがおり、このような人びとと、彼らの背後にいる、すでに鬼籍に入った人たちも含む、膨大な戦争被害者こそが、まずはダイレクトに「血のコスト」を支払うことを強制された人びとであり、「血のコスト」の重い意味をその生命で感じている人たちだということなのである。
 三浦氏の言説には、その視点が決定的に欠ける。

 《荻上チキの Session-22》は、そんな三浦氏や、安保法案の基礎や「安倍談話」における安倍首相のブレーン・北岡伸一氏を招いたりもしていて、これはある種、番組維持存続のための方策とも取れなくはないけれど、ゲストはフランクにチキさんと語っている。

 北岡氏の時は、ポータブル・ラジオの前でかまえて全部聞いた。
 首相談話に「侵略」の語を入れさせたりしたので、氏に対しては右派からの罵言も多く、氏の安全保障論には、むしろある種バランスのとれたものも感じた。
 インタビューの冒頭、チキさんは北岡氏が幼少のころ、家族・親族から戦争の話を聞いたことがあるか、という質問をした。

 私が、このインタビューでいちばんびっくり仰天したのは、北岡氏が、ひどく簡単に、そしてぶっきらぼうに「ないです(ありません)」と答えたことだった。
 私は昭和30年代生まれで、父親は兵役の経験があるものの外地へは行っておらず、祖母も父の生家で戦時を過ごし、家は焼けてもいない。
 それでも父は兵役時代の不快なことを語り、祖母も「焼夷弾」の脅威を語っていた。

 昭和23年生まれの北岡氏が、家族・親族から戦争の話を何も聞いていない、というのは、ひっくりかえるほど驚かされることだった。
 もちろん、そういう話を聞いていないならしようがないし、そういう話を聞いていない人の安全保障論は信用ができない、とは言えないのだけれど、ほんとうにびっくりした。

 ‘現実の’国際社会における安全保障環境の激変に、わが国も「世界レヴェルで」対応しなくてはならない、という場合、国会運営の実態から、公文書保存と開示の充実まで、「先進国レヴェル」にしてから、初めてことを始められるのである。

 「軍事演習」というものは可能だが、「戦争演習」というのはありえないのだ。これは災害における「避難訓練」はできても「被災訓練」はゼッタイに不可能なのと同じである。

 その点で、「可決した」今の時点は、賛成・推進派にとっても口舌にのぼせないほどの大きな緊張を強いられる転換点であるはずだ。
 論争の両派のあげ足取りの議論は全部ほうったとして、自衛隊は劣化ウラン弾を、そして海外では核弾頭も輸送できる(=しなくてはならない)ということになった。

 この「戦後70年の安全保障の大転換」は、とくに海外に出る旅行者や出張者、あるいは駐在者にとっての「セキュリティの70年ぶりの大転換」に、まずはなるし、自衛隊はもとより、関係官庁にとってそれこそ‘想定外’の事態が突発してくる可能性もありそうだ。
 政治家や知識層やメディアの「志」と「力量」とは、そっちのほうで測られるだろう。

ヤマト運輸、メール便を廃止。

 ネットオークションなんか、もうやっている場合ではないのだが ― ブログを書いている場合でもない!;; ― オデオ関係の書籍3点が落札され、先ほど発送した。
 ややこしいので「送料無料」にしている(そうしておいてよかった。1点はクロネコメール便で厚さ1cm以下だったので、164円請求していたら気まずいことになった)が、そうすると ゆうメールなんかだと落札額の2割以上持っていかれることも多い。

 1点だけで薄いものの場合、クロネコメール便が重宝するのだが‥‥

クロネコメール便廃止

 そのクロネコメール便が、周知のように3月末で廃止になる。

 同社として、「お客さまがクロネコメール便で信書に該当する文書を送った結果、郵便法違反容疑により、当社だけでなくお客さままでもが警察に取り調べを受けたり、書類送検されたりするケースが発生して」おり、「法違反の認識がないお客さまが罪に問われるリスクを放置することはできないため」メール便を廃止する、ということだ。

 気になるのは、
(1) 送り手が「書類送検」された例が出ている、ということだが、この情報に、具体性がない。
 まず、どうして「発覚」したのだろうか。そのあと、警察のどのような捜査が行なわれたのか。その辺の取材をしたジャーナリストは、いないようだ。
(2) 日本郵便のサービスでも、「ゆうパック」や「ゆうメール」では、信書を同封してはいけない。
 が、実際には、親が子どもに送る「ゆうパック」=‘小包’に、「ちゃんとごはん食べているかい?」みたいな手紙を同梱することは起こっているのではないだろうか。
 ― だが、こちらはあまり問題にならないようだ。なぜなら、郵便法は、サービスに関してではなく、「日本郵便以外の事業者が信書を扱うこと」を禁じているからである。

 日本郵便以外に信書移送を委託した場合の、その罰則の整合性というのは、どういうところにあるのだろうか?
 犯罪を構成するという場合、そこには「被害者」がいる、ということがまず思い浮かぶ。

 郵便法にいう、「日本郵便以外の者に信書の輸送を委託した」場合の「被害者」とは?
 抽象的に考えると、「郵便や信書の発送・配達はユニバーサルサービス(=日本国中どこででも同じく受けられるサービス)でなくてはならない」という理念が、郵便法の根柢にあるとして、そのユニバーサル性を、日本郵便以外に信書を託することが「侵害してしまう」ということなのだろう(そうなのか?)。

 メール便で「書類送検の例まで出ている」のなら、‘宅急便’への信書同梱の例もありえ、そうなると、「日本郵便以外の事業者は個人宅配便を扱うことは危険」とまでなりかねないはずだ。

 立法府は、いうまでもなく国会議員で構成される国会である。
 歳費2,200万円(総収入は当然それ以上)の国会議員には、各法の整合性について、考察の怠慢がないのかどうか、選挙民はいまいちど考えてみてもいいのではないだろうか。

 ヤマト運輸としては、4月以降、メール便に相当するサービスとして、「ネコポス」というサービスを提示している(「宅急便コンパクト」は、運賃が高価過ぎて問題にならない。こちらはむしろ、従来の宅急便の廉価版として利用するべき)が、「※但し、23cm×11.5cm以内を除きます」としていて、カセットテープ1ヶを小さな封筒で送るような場合は使えないことになる。


 CD1枚なら、1辺は必ず「11.5cm」を超えるから、大丈夫なのか…。

 加えて、個人の利用状況・条件で運賃が変わるそうで、明記されていない。

 ということで、クロネコメール便は、ほぼそっくりそのまま日本郵便の「クリックポスト」に取って替わられる情勢であるわけだ。
 この「クリックポスト」、Yahoo!ウォレットからのクレジットカード引落し以外、決済できない。

 また、1件の発送につき、A4 1枚の伝票をプリントアウトする必要があり、貼付部分はその左上1/4だけ、という逆-エコ志向
 伝票の入力・印刷そのものが「発送サービスの購入」=決済になるので、プリントアウトしたあとで「あ、住所1字間違えちゃった」というような場合の訂正法は、ネット上でもよくわからないという指摘がある。

 かつて、小泉政権の時、‘郵政民営化’は選挙をあげての大号令となり、国民の大多数は大共鳴したわけだが、「郵便法」のこの一端に関しては、どうなのだろう?

 個人的には、同じ宅配サービスを利用するなら、全体に安価で、十分安全でもある日本郵便「ゆうパック」を利用しようと思っているユーザーであり、日本郵便の職員さんには常々感謝している者なのだが、‘郵政民営化’以降、どうも彼らがますます労働強化されるいっぽうで、窓口では待たされるし‥‥‥日本郵便が株式上場する、という時期でもあり、なんなんだろうなあ、という感じだ。

投票日前の二題。

中村修二氏、特許法改正反対

 NHK《時論・公論》で、特許法の改訂で、社員の発明は、その権利が会社・企業に帰属する方向に改訂される、というトピックを扱っていた。
 折りしもノーベル賞受賞でスポットライトを浴びている青色LED開発者・中村修二さんが、発明の権利に関して所属していた企業と対立していたことが報じられている。

 政・財界からすれば、こういった‘過剰に権利を主張する(かに見える)’社内研究者は、厄介な存在であろう。
 この問題に関しては、いろいろな意見があると思われるが、法改正に踏み切ったところには、明らかに、現政権が財界の意思を尊重する、という姿勢であることを明示している。

 思うに、安倍政権はNHKに選挙直前にこういうトピックを扱ってほしくはなかっただろう、と推測(邪推)している。

 加えて、発明・特許の帰属がどうなるにせよ、弱い立場の個人が、企業との間で不利になる‥‥場合によっては、発明・開発に関する権利が認められないというだけではく、一端企業に利用された開発・発明にメリットがなかったとして民事あるいは刑事で告訴されたり、というような、結果的に個人が‘陥れられる’ような事例に関する注意も喚起されなければならないと思う ― ネット上で印象に残ったのは、こちらのブログ記事に見える、‘小保方さんではない事例’だ。

 昨今かまびすしい研究者の不正防止教育の重要性であるが、ここには、研究者個人が自らの権利をどう守るか、という「教育」もセットでなければならない。
 しかし、それは、「企業」社会=財界にとってはやってほしくないことであろうから、積極的にやっていることが知れた大学・大学院は就職面で差別されるということも危惧される。

吉野家、牛丼値上げ

 もうひとつ、安倍自民党が選挙直前にやってほしくなかったと推測できることこと‥‥は、吉野家の牛丼値上げ発表

 リンクした朝日の記事を見ると、じつは以前も牛丼が380円だった期間はかなりあるのである(松屋と違い、味噌汁は別売であることには注意)。
 ‘それでも払えない私’が言うのはおかしいが、一杯380円の牛丼というのは、そう高くない、どころか、非正規でガンガン働かざるをえないバイトさんたちのお蔭で、安い外食ではある。

 それでも、私個人はもう何ヶ月も外で牛丼・牛めしは食べていないし、80円の値上げで、弁当にシフトするサラリーマンはそこそこいるのでは、と思う。
 気になるのは、今後の‘空前の’円安潮流で、牛丼チェーンの値上げだけでも、これだけで終わりそうにないところだ。

「アベノミクス」という「語」

Prime Minister!

 解散総選挙。得意満面欣喜雀躍の安倍総裁率いる自由民主党である。
 完々璧々の一強多弱状態で、自分たちの政策がどうの、は一切おかまいなく、一斉攻撃、機銃掃射、敵全員抹殺‥‥とうまくいくのか? これが行きそうなのである。

 GDP対前期成長率年率換算 −1.6%で“民意を問う”。
 GDPのマイナス成長については、世の‘エコノミスト’という業種の人たちは、個人消費の落ち込みはあまり言いたくなく、もっぱら「誤算」の主因を、企業の在庫減に求めている、とか。

 経済は全くわからない私には、判断できかねるが、そもそも「エコノミスト」というような職種の人間には、日々の生活が困窮している層はもちろん、低所得層全般の生活感覚なんかわかるはずもないのである。

 それでも、今度の選挙、連立与党以外に「マトモ」な選択肢はありえないと大多数の国民が判断するように思う。
 民主党は、いちど現実に政権担当した時の、あまりの無惨さを忘れている人はいまいから、積極的支持はまずありえない。
 「みんな…」を標榜した野党は、人望のないリーダーの気合いだけを戴いて、解散と同時にみごとに空中分解した。

 ‘社・共’は、単純にカウンターバランスになりうるだけであり、現実の政治運営に携われば民主党よりひどい混乱を引き起こすこと請け合い‥‥こういう言い方はしたくないけれど、「政治」の世界で高額の収入を得ている人びとは、その感覚を脱することは不可能なのである。

 これは、分野が異なるが、かの「朝日新聞」現象に否みようもなく顕著に現われてしまった。
 あの「朝日新聞」の所業で、わが国の「リベラル」がどれだけ傷ついたか知れない。大新聞の上層部という形で「生活している」と、自分たちの「メシの食い方」で、人びとのそれまでの努力をどれほど毀損しようと、遠慮や反省というものは生じようもないのである。

 ‥‥てな議論をしてもあまり果実はない。
 本エントリでは、「アベノミクス」という単語について考えてみたい。

 「アベノミクス」は、安倍晋三の「Abe」と「economics」を合体させた、“安倍晋三の経済政策”という形で発案された造語、ということになっている。
 元来、「economy=経済」という英語(欧語)は、ギリシア語で家庭を意味し、ひいては「家計」につながるオイコス oikosと、秩序・法律を意味するノモス nomosが合体してできた単語である。
 しかしてエコノミー(≒エコノミクス)は、「家計のマネジメント法」というような形で、経済の学というように訳される。

 で‥‥この語源から、こんどは「アベノミクス」という語の意味を考えた場合、「安倍晋三の‘経済’政策」であるというよりも、「Abe+nomos」、すなわち、
 「私、安倍晋三が法・秩序である」
 という宣言だと、まさに読めるのである

 安倍首相の改憲をゴールとした、モノスゴい Führer(=指導者)ぶりには、全く尋常でない空気を感じる。が、これこそが「アベノミクス」なのだ!

 新憲法草案には、障害を持った人びとや、環境への言及などがあるにはある。
 安倍氏のサイトの改憲見解のページには、現憲法に対して、「当時は想定できなかった環境権、個人のプライバシー保護の観点から生まれてきた権利などが盛り込まれていません」という批判を記している。

 「環境権」! これを大切にし、実現に努めるような政党が永く政権の座にあった国なら、水俣病・米水爆実験被曝・ハンセン病・アスベストといった悲劇的な問題が、これほど長きにわたって解決を妨げられ続けるということが、ありえただろうか?

 いや、こんな議論もまた果実をもたらすまい。完全無欠の「一強多弱」である。

「ペインボディ」とイスラーム国

 新しい‘お助け本’として、エックハルト・トールの『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる(The Power of Now)』をいちど通して読み、また最初からゆっくり読んでいる。

 ‘スピリチュアル’っぽい要素はあまりなく、きわめてシンプルな‘生き方・考え方指南書’といった趣きがある。
 ともかく骨子は「今に在れ」というひとつことに尽き、ときおり臨済などを引用するが、その『臨済録』の「随処作主、立処皆真(随処に主と作(な)れば、立処みな真なり」と言うのなどに即、通じる(岩波文庫で積ン読だった『臨済録』も、通勤の車中でほぼ読んだ)。

 反対に、彼の教えで、人間を不幸に縛り付ける悪しきファクターは ― 一人歩きする時間観念や、その元となる思考、ネガティヴな思考が身体に共鳴した感情、といったものだ。

 その中でも、過去からの不快な感情が凝集して実体化したような感情を、「ペインボディ Painbody」と称して、これを見極めて意識の光に曝すことで、これの力が消失し、影響から解放される、と言う。

 『さとり…』を読んで、その言説がじつに全(まっと)うであり、実践の手引きとしても哲学的思惟への示唆としてもたいへん有益だと思ったと同時に、私自身の内面に蓄積され、ある意味マグマのように‘活きいき’と脈打つ「ペインボディ」のエナジーの大きさに、改めて強烈に気づいた。

 このようなペインボディが強烈に作動すれば、通り魔のような犯罪は容易に起きるだろう。
 秋葉原で通り魔を実行したKなどは、まさに全人格を自身のペインボディに明け渡した実例だ。

 私が、自分のペインボディの大きさに驚き、戦くというのも、E.トールのいうように「いまに在る」べくいくら努めても、過去に関するネガティヴな思い=ペインボディが、常に‘活線’の状態で意識のすぐそばにあるということなのである。

 不用意に触れさえしなければ、手の近くに400〜800Vの電圧のかかった活線があっても、それだけで感電はしない。
 しかし常にそのような状態で暮らすというのは、なかなかのストレスである。

 E.トールがいう「強烈にいまに在る」ことは、ちょうど高圧アンプを調整する際に手袋をするようなことになるのだろうけれど、手袋と違って気が緩めば‘感電’するのである。

 視点を変えると、この「ペインボディ」はしばしば集合的 collectiveなものになりうる。
 その典型が「イスラーム国」だ。

 メディアがイスラーム原理主義テロリストの犯行を伝える時、「イスラームそのものは平和的で、決してテロを是とするものではない」という、ある種免罪符的コメントを付加することが多いけれども、イスラーム国の所業は、そういったコメントの浅薄さをみごとに嘲うごとく、残虐だ。

 「イスラームそのものは平和的」と糊塗すればするほど、「イスラームの中の残虐性」が集合的に凝集・実体化してイスラーム国をますます強めていっている。

 ユダヤ・キリスト教、ヘレニズム、近代的民主主義の伝統が息づく欧米社会の中から、イスラーム過激主義に呼応する若者がなぜこんなに輩出するのか。
 NHKの『クローズアップ現代』や『ニュースWEB』で呼ばれるゲストが行なう説明は、ほとんど「彼らの巧みなネット利用宣伝」に終始している。

 聞いていて、こちらの知識不足を棚に上げてしまうけれど、ほんとうに、救いようがないほど浅薄だ。
 こうした専門家たちには、心理学やイスラーム思想史の、知識はともかく、そういったファクターの考察が必要だという認識そのものが、根底から欠如しているように感じる。

 イスラーム研究の権威だった井筒俊彦氏の研究は、研究対象への好意があるのは当然としても、どうしても哲学思想面に重きを置き、政治的考察に乏しい嫌いはあるような気がする。

 そんな井筒氏の著書ではあるが、イスラームのいわゆる宗教指導者、ウラマーについて語る部分で以下のように言っている。
 「ウラマーの政治的権力は実に絶大なものであります。なぜなら、いったん異端を宣告されたが最後、その人、あるいはそのグループは完全にイスラーム共同体から締め出されてしまう。‥‥(中略)‥‥「イスラームの敵」になったものの刑は死刑、全財産没収。個人の場合はもちろんそのまま死刑。異端宣告を受けたためにどれほど多くの人が刑場に消えていったか、数えきれません。」(『イスラーム文化』岩波文庫(初出版1981)、48〜49頁)

 イスラームのオーソドキシーは、ある部分、明瞭に暴力によって決定・継承されてきた ― 他の一神教にもその要素がなかったわけではないが ― という史実を覆い隠してよいはずはなく、むしろ現代のムスリムに対して、この部分の総括をどう求めてゆくのかが、非ムスリムの責務ではないかとも思う。

 片倉もとこ氏の『イスラームの日常世界』(岩波新書、1991年)は、民族学者としてのプロの目で、しかもくだけた日常的視点でイスラームの生活実態を描いている好著(ただし私は拾い読みていど)だが、その終わりのほうで、イスラーム原理主義の動向調査をする英国人のことばを伝えている:
 「恐ろしいと思うのは、大事件をおこすテロ集団の突発的な行動ではない。むしろふつうの家庭に育つ中学や高校の生徒たちが、ある日突然のようにイスラーム服に身をつつみ、熱心なムスリムになる。そして西洋服の母親や酒を飲む父親を批判しはじめるという現象が、あちこちの家庭でおこっているということだ。マスコミにも報道されないうちにジワーッとくる日常的変化だ。若い世代に浸透して、ジワジワと進行しつつある地殻変動は、世間をさわがす表立った“事件”よりも、恐ろしい」(216頁)

 こういったところを掘り下げる視点を、テレビにおけるイスラーム・テロの報道では全くといっていいほど見たことがない。
 もっとも、本エントリーもそういうところを掘り下げる意図も、私の知識もないのだが、そうこうしているうちに、E.トールのいう「ペインボディ」が、ほんとうに集合的なものとして、実体化したというのが実感だ。

 イスラームの中の最も暗黒な部分と、現代世界の若者の中の実体化までせざるをえなくなるほど膨張した「ペインボディ」が、引き合い、融合・共鳴して「イスラーム国」を日々強力なものにしていっているように見える。

 こんな集団に、よりによって参加しようという若者がわが国からも出てきた。
 とんでもない、と言わない人はいないし、私もそうだけれど、「とんでもない」と言う向きの中には、こういう心境に至る者の気持ちには一切目を向けていない人もいるのではないかと思う ― もちろん、そうでない人もいることもわかるが。

 現在、高齢化しても反戦の意思を何らかの形で強く表わしている方たちは、何といってもその動機が実際の戦争被害であることが多い。
 まことに皮肉で、かつ決定的に悲劇的なことだが、戦争の恐ろしさを真に「知る」には、戦争被害を体験するしかないのだ。

 実際にイスラーム国に参加して、予想とは全く違う「戦争」を体験して、そこでトラウマを得る若者が増えれば、それはそれで、恐ろしいプロセスではあるが、自身の、あるいは人類普遍の「ペインボディ」に気づく可能性は大いにある。

 もっとも加えて痛ましいのは、気づいたとしてもそこから「癒える」ことは不可能かもしれないところだ。
 そうではあっても、それは「魂の破壊」とともに、最後のその若者の「気づき」になりえる‥‥いや、これは私の「ペインボディ」がこんな残酷なことを言っているのかもしれないが。

 イスラーム国の真っ黒な「国旗」は、内包するペインボディの深さを象徴している。
 こうした共同体は、内部で日常的に相互殺戮も行なわれているはずで、そういったところを参加者が味わうことも、かつての連合赤軍などのさらにスケールアップしたものになるだろうし、まことに悲惨だが、彼らはそれを味わっていくしかない。

 こうした暴力支配の要素は、そもそも井筒氏が述べたように、イスラーム共同体に歴史的に存することではあったし、北朝鮮なども数十年にわたって変わらないので、ずっとこのまま成長し続けるかもしれないが、あまりの暴力過剰支配は、内部崩壊を来たさないとも限らない。


 いっぽうで、エボラ出血熱のような、自然からの脅威が恐ろしい勢いで人類に迫ってきている。
 ニュースを見ていると、最も恐ろしいものは「外」にあって、「外」に対してどのような防御をするべきかと言うばかりであるが、内面の「ペインボディ」は、真に恐るべきものだと思う。

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