‘幸福すぎる人生を送るあまり、その音楽に深みがない’ふうな言われ方をされがち(?)な、ヤーコプ・ルートヴィヒ・フェリックス・メンデルスゾーン=バルトルディさん。
しかし、その交響曲第3番『スコットランド』はとても深い情緒を延々と歌う。
交響曲第3番と、序曲『フィンガルの洞窟』(ヘブリディーズ序曲)とは、作曲者が、16世紀に悲劇的最期を遂げたスコットランド女王メアリー・スチュアートへの関心、具体的にはホリルードの宮殿を訪れた印象にインスパイアされた、ということのようだ。
メアリー女王の閲歴は、かかわる諸事件がもう複雑で、私には何がどうなっているのやら、説明など不能。マニアの人たちがたくさんサイトを作っているので、興味のある方はググればいくらでも出てくるし、書籍も多いだろう。
その、メンデルスゾーンの交響曲第3番『スコットランド』。
世評で、抜かすことができないと言われるオットー・クレンペラー指揮の録音。ゆったりしたテンポで、悠然と盛り上げてゆくロマンの深さが圧倒的だ。
この交響曲は、第2楽章を除いて全体に暗鬱な雰囲気を濃厚にし、メアリー女王の悲劇的最後に向かってゆくような暗さを基調としているけれど、終楽章のコーダで長調のコラールが姿を現わし、そのコラール(ファンファーレふう?)を高らかに歌い上げて全曲の幕を閉じる。
しかし、知られているように、クレンペラー自身はこの最後に突然現われる明るいコラールは、楽曲にふさわしくなく、作曲者自身も疑念を持っていた、と考え、暗いまま終結するコーダを作り、これで演奏した録音が残っている。事情は、こちらなどが簡潔かつわかりやすい。
独自コーダのヴァージョンで残されている録音のCDは、バイエルン放送交響楽団を指揮した1969年(クレンペラー、84歳!)のライヴである。
ニュー・フィルハーモニア管とのスタジオ録音(1960年、マエストロ 75歳)のさらに9年後。
いずれもリリースは EMIで、ライヴ盤のほうはショップ・サイトやオクでは、ものによってはトンデモ価格になっているが、ディスクユニオン店頭では、実際に売ることを前提にしているので、千円前後の価格で見つかる。
この独自コーダのライヴ版(盤)については、宇野功芳氏は、「これ(ライヴ盤)は終曲の結尾を自作のものに変え、短調のまま淋しく終わる。その味わいは抜群で、両方とも(スタジオ盤と両方)持っていたい」(『クラシックCDの名盤』文春新書、新・旧版とも同文)と言及している。
また、アマチュアのレコード評も多く掲載した、『クラシック名盤 この1枚』(光文社知恵の森文庫)には、この本の中でもとくに魅力的な文章を寄せている「安本弦樹」氏が、スタジオ盤を取り上げる中で、以下のように書いている。
「第4楽章ではアレグロ・ヴィヴァーチッシモの表示には目もくれず、堂々としたテンポを固持するが、リズムのキレが良いので「遅い」という感じはなく、さらに雄大なマエストーソで曲は締めくくられるので、全体の充実感はこのうえない。ただし、コーダが雄大であるがゆえに、かえってこの最後の部分が冗長に感じられるという、この曲の構造的問題点をも浮き彫りにしているような気もする。
クレンペラーはこの問題点に気がついていたからこそ、1951年のウィーン響との「スコットランド」では、第4楽章の指揮をとらなかったのだろうか。また、1969年5月23日のバイエルン放送響とのライヴ(EMI)では、短調のまま終わる自作のコーダを演奏したのは、一つの解決を示そうとしたのかもしれない(この最晩年の「スコットランド」もみごとだ。まったく緩みがなく、幻想的なまでに美しい!)。」(62頁)
少し前、写真のとおりライヴのバイエルン盤を入手して、先日通して聴いてみた。
私は個人的には、終楽章コーダの高らかに歌い上げるコラールが、そしてこのコラールで盛り上げて終わる『スコットランド』が大好きなので、クレンペラー「説」にはどうも違和感がなくもなかったのだが、聴いてみると、みごとに悲哀と暗鬱の中に、あたかもメアリー女王の悲劇そのままを描いたごとくに全曲を閉じる、その説得力は大きかった。
では、少なからぬリスナーが、むしろ「不自然」と感じ、そしてクレンペラーの独自コーダが十分受け容れられるにもかかわらず、なぜあのようなコラールでの終結を、作曲者は残したのか。
もちろんそんなことはわからない。
閑話休題‥‥ではなく、以下がこの記事のもうひとつの素材なのですが…。
しかし、その交響曲第3番『スコットランド』はとても深い情緒を延々と歌う。
交響曲第3番と、序曲『フィンガルの洞窟』(ヘブリディーズ序曲)とは、作曲者が、16世紀に悲劇的最期を遂げたスコットランド女王メアリー・スチュアートへの関心、具体的にはホリルードの宮殿を訪れた印象にインスパイアされた、ということのようだ。
メアリー女王の閲歴は、かかわる諸事件がもう複雑で、私には何がどうなっているのやら、説明など不能。マニアの人たちがたくさんサイトを作っているので、興味のある方はググればいくらでも出てくるし、書籍も多いだろう。
その、メンデルスゾーンの交響曲第3番『スコットランド』。
世評で、抜かすことができないと言われるオットー・クレンペラー指揮の録音。ゆったりしたテンポで、悠然と盛り上げてゆくロマンの深さが圧倒的だ。
この交響曲は、第2楽章を除いて全体に暗鬱な雰囲気を濃厚にし、メアリー女王の悲劇的最後に向かってゆくような暗さを基調としているけれど、終楽章のコーダで長調のコラールが姿を現わし、そのコラール(ファンファーレふう?)を高らかに歌い上げて全曲の幕を閉じる。
しかし、知られているように、クレンペラー自身はこの最後に突然現われる明るいコラールは、楽曲にふさわしくなく、作曲者自身も疑念を持っていた、と考え、暗いまま終結するコーダを作り、これで演奏した録音が残っている。事情は、こちらなどが簡潔かつわかりやすい。
独自コーダのヴァージョンで残されている録音のCDは、バイエルン放送交響楽団を指揮した1969年(クレンペラー、84歳!)のライヴである。
ニュー・フィルハーモニア管とのスタジオ録音(1960年、マエストロ 75歳)のさらに9年後。
いずれもリリースは EMIで、ライヴ盤のほうはショップ・サイトやオクでは、ものによってはトンデモ価格になっているが、ディスクユニオン店頭では、実際に売ることを前提にしているので、千円前後の価格で見つかる。
この独自コーダのライヴ版(盤)については、宇野功芳氏は、「これ(ライヴ盤)は終曲の結尾を自作のものに変え、短調のまま淋しく終わる。その味わいは抜群で、両方とも(スタジオ盤と両方)持っていたい」(『クラシックCDの名盤』文春新書、新・旧版とも同文)と言及している。
また、アマチュアのレコード評も多く掲載した、『クラシック名盤 この1枚』(光文社知恵の森文庫)には、この本の中でもとくに魅力的な文章を寄せている「安本弦樹」氏が、スタジオ盤を取り上げる中で、以下のように書いている。
「第4楽章ではアレグロ・ヴィヴァーチッシモの表示には目もくれず、堂々としたテンポを固持するが、リズムのキレが良いので「遅い」という感じはなく、さらに雄大なマエストーソで曲は締めくくられるので、全体の充実感はこのうえない。ただし、コーダが雄大であるがゆえに、かえってこの最後の部分が冗長に感じられるという、この曲の構造的問題点をも浮き彫りにしているような気もする。
クレンペラーはこの問題点に気がついていたからこそ、1951年のウィーン響との「スコットランド」では、第4楽章の指揮をとらなかったのだろうか。また、1969年5月23日のバイエルン放送響とのライヴ(EMI)では、短調のまま終わる自作のコーダを演奏したのは、一つの解決を示そうとしたのかもしれない(この最晩年の「スコットランド」もみごとだ。まったく緩みがなく、幻想的なまでに美しい!)。」(62頁)
少し前、写真のとおりライヴのバイエルン盤を入手して、先日通して聴いてみた。
私は個人的には、終楽章コーダの高らかに歌い上げるコラールが、そしてこのコラールで盛り上げて終わる『スコットランド』が大好きなので、クレンペラー「説」にはどうも違和感がなくもなかったのだが、聴いてみると、みごとに悲哀と暗鬱の中に、あたかもメアリー女王の悲劇そのままを描いたごとくに全曲を閉じる、その説得力は大きかった。
では、少なからぬリスナーが、むしろ「不自然」と感じ、そしてクレンペラーの独自コーダが十分受け容れられるにもかかわらず、なぜあのようなコラールでの終結を、作曲者は残したのか。
もちろんそんなことはわからない。
閑話休題‥‥ではなく、以下がこの記事のもうひとつの素材なのですが…。