都知事候補の一人が、高齢なのがちょっと懸念されている‥‥のだが‥‥といってとくに関係を見出だせるわけでもなく、また牽強付会しようという魂胆でもない(そう見られる^^?)のだけれど、高齢になって世界遺産的なレコードを遺している音楽家は、なかなかに多いのである。
弦や管、あるいは声楽の場合は、体力的な部分がかなりあるので、60歳くらいまでで事実上の引退となるのだが、指揮者とピアニストは、80代でその人の最高傑作を遺す場合が、かなりある。
まず、ピエール・モントゥー Pierre Monteux(1875-1964)。
1875年というと、心理学者 C.G.ユング、作家 トーマス・マン、日本では民俗学者 柳田國男などが生まれている。
写真は、英Decca録音で、左がストラヴィンスキーの『春の祭典』と『ペトルーシュカ』。パリ音楽院管弦楽団との、いちばんあとの録音で、オケのテクニックや指揮者の覇気から、あまり推薦されない音源だけれど、インレイによると『春の祭典』は1956年、『ペトルーシュカ』は1957年、モントゥー80〜82歳の時の録音。
右はラヴェルの『ダフニスとクロエ』全曲、ロンドン交響楽団、1957年録音(これはキングレコードのリリース。音は悪くないです^^)。
この3名曲、いずれもモントゥーが初演を振っているのもすごい。
『春の祭典』の初演は客が騒いで騒然たる結果だったといわれる。映画《シャネル&ストラヴィンスキー》では、『春の祭典』の初演シーンから始まるらしい(見ていない…;;)が、モントゥーふうにヒゲを生やした役者さんが振っていた、とか。
モントゥーは亡くなる前年の1963年にロンドン響を率いて来日し、大阪国際フェスティバルで指揮している。そのライヴ音源もCD-R化されている(オクで出ているはず…)。
2枚のステレオ録音は、50年代中盤の英Deccaによるもので、その鮮明かつ音楽性の高さも時代からすると驚くべき。あ、リマスター盤が出ていそうな‥‥。
次にカール・シューリヒト Carl Schuricht(1880-1967)。
日本にとくにファンが多いというマエストロ。ひとえに故・宇野功芳氏の功績である。
だいたい商用録音は1963年まで。写真左のブルックナー第8盤は EMI、右の第5番は DGリリースだが、オーストリア放送協会音源のライヴで、モノラル。
今は別レーベルで出ていたはず。
なお、音楽評論家・嶋 護(しま・もり)氏は、晩年のシューリヒトについて、以下のよう述べているのは、興味深い:
「また、晩年のシューリヒトは、このようなチェック(=録音後のプレイバックによるチェック:引用者)自体が無意味な指揮者でした。彼は老いて呆けていたのです! リハーサルでも、いったんタクトが止まってから繰り返すたびに、テンポはそれまでとまったく異なってしまい、オーケストラは面食らいました。デッカが彼の晩年に録音をしなくなった理由は、こうしたものです。デッカ時代つきあいのあったプロデューサーがEMIに移ったため、そのよしみでかろうじていくつかの録音がEMIに残されました。
そのEMIの録音の中でも有名なブルックナーの交響曲へのアプローチが、『第八番』と『第九番』で正反対ほどに異なっているのは、このためです。これを評して「即興的」などと褒めるナイーヴな批評家はいないでしょうね?」(「クラシック、このすばらしき神話的世界」、青弓社編集部編『オーディオ道入門』青弓社、寺子屋ブックス23。2001年、71頁)
これは、晩年のシューリヒトの評価を、かなり毀損する言説ではないか(と読めてしまう)と思われ、ほんとうなら、それはそれで無視できないことがらだと思う。
この説は、『オーディオ道入門』という、クラシック本道のファンの目にはあまり触れないと思われる書籍に載ったためか、あまり引用されない(されている?)ように思うのだが、嶋氏は、ここで確実な情報源はおぼろげにすら示していない。
嶋さんは、音楽雑誌などの執筆にもあまり見かけないのだが、この言説が影響しているのだろうか、と邪推してしまう。
もうすでに典拠を開示されているのかも知れず、私が知らないだけなのだろうが、このような言説には相当の責任が伴なうのではないか、と思う。
というのも、上掲、1963年のライヴが、まさに嶋氏の言を示唆するかのようにテンポが大きく動きながらも、コンサートは成立している、からである。
認知症の指揮者が、ここまで指揮台で「踊る」だけで、名オケは名演を成しとげられるのだろうか?
嶋氏については、菅野沖彦氏の録音の仕事を考究・集成した業績(『菅野レコーディングバイブル』、ステレオサウンド社。すばらしいマスタリングのCD付きとのこと)が、中野 雄氏に高く評価されている(『新版 クラシックCDの名盤』文春新書、130頁)ことも、付記しておくべきだろう。
おっと、二人で長くなりすぎた。
これまた日本に、ファンというより‘崇拝者’が多い、ギュンター・ヴァント Günter Wand(1912-2002)。
60代までのレコードは、ケルン放送響を振ったブルックナー:交響曲全集(Deutsche Harmonia Mundi → Sony BMG)以外、ほとんど聴かれるようなものがない、アンダーレイテッド・コンダクターだったのが、最晩年に「神」になった。
写真はベルリン・フィルを指揮したブルックナー。第8番は、いちど手放してから再購入していない。
左の第7番のほうが、1998年録音と新しく、マエストロ86歳ということに。
ピアニストにも、高齢ですばらしい録音を残す人がいる。
写真左上は、有名なルービンシュタイン(1887-1982)/メータ/イスラエル・フィルによるブラームス:ピアノ協奏曲第1番(Decca。キング盤です)。
1976年の録音なので、89歳の録音!
その右は、クラウディオ・アラウ(1903-1991)の、1986年デジタル録音のベートーヴェン(Philips)。
下段左は、フランスのヴラド・ペルルミュテール(1904-2002)のショパン。この英Nimbus盤は、1981、82年の録音なので、70代後半の録音になる。
右は、ルドルフ・ゼルキン(1903-1991)晩年(1987年)、84歳の時のライヴ録音で、ベートーヴェンの後期三大ソナタ。
DGのリリースだが、オーストリア放送協会音源で、ここの録音は、上のシューリヒトなどの復刻もそうだが、だいたいよくない。
これら、超高齢・大ピアニストたちの演奏、指のまわりはやはり彼らの若い時、あるいは若い名人たちより遅くはなっているだろうけれど、味わいは‥‥と言えるほどには私、聴き込んでいないのです;;。
アラウの『悲愴』は、評論家陣にも高評価、第2楽章のあの有名な旋律を、しみじみと弾いており、じっくり聴くべき演奏。
EMI時代のステレオ録音(最近、集成されました)ですら50代後半で、宇野功芳氏はこのころのアラウは「にぶい」とあまり評価しない。
私は、セラフィムの国内盤LPで、ベートーヴェンの協奏曲第1番(指揮はアルチェオ・ガリエラ)を聴いていたことがあり、颯爽とした演奏で、第1番には合うが、深みは感じなかった。
80年代、デジタル期の録音が価値高いのだが、廃盤が多いのなんの。
― という、超高齢じいさん音楽家たちの残した、世界遺産級の名盤群でした。‥‥クレンペラー、はしょりました^^;;。
弦や管、あるいは声楽の場合は、体力的な部分がかなりあるので、60歳くらいまでで事実上の引退となるのだが、指揮者とピアニストは、80代でその人の最高傑作を遺す場合が、かなりある。
まず、ピエール・モントゥー Pierre Monteux(1875-1964)。
1875年というと、心理学者 C.G.ユング、作家 トーマス・マン、日本では民俗学者 柳田國男などが生まれている。
写真は、英Decca録音で、左がストラヴィンスキーの『春の祭典』と『ペトルーシュカ』。パリ音楽院管弦楽団との、いちばんあとの録音で、オケのテクニックや指揮者の覇気から、あまり推薦されない音源だけれど、インレイによると『春の祭典』は1956年、『ペトルーシュカ』は1957年、モントゥー80〜82歳の時の録音。
右はラヴェルの『ダフニスとクロエ』全曲、ロンドン交響楽団、1957年録音(これはキングレコードのリリース。音は悪くないです^^)。
この3名曲、いずれもモントゥーが初演を振っているのもすごい。
『春の祭典』の初演は客が騒いで騒然たる結果だったといわれる。映画《シャネル&ストラヴィンスキー》では、『春の祭典』の初演シーンから始まるらしい(見ていない…;;)が、モントゥーふうにヒゲを生やした役者さんが振っていた、とか。
モントゥーは亡くなる前年の1963年にロンドン響を率いて来日し、大阪国際フェスティバルで指揮している。そのライヴ音源もCD-R化されている(オクで出ているはず…)。
2枚のステレオ録音は、50年代中盤の英Deccaによるもので、その鮮明かつ音楽性の高さも時代からすると驚くべき。あ、リマスター盤が出ていそうな‥‥。
次にカール・シューリヒト Carl Schuricht(1880-1967)。
日本にとくにファンが多いというマエストロ。ひとえに故・宇野功芳氏の功績である。
だいたい商用録音は1963年まで。写真左のブルックナー第8盤は EMI、右の第5番は DGリリースだが、オーストリア放送協会音源のライヴで、モノラル。
今は別レーベルで出ていたはず。
なお、音楽評論家・嶋 護(しま・もり)氏は、晩年のシューリヒトについて、以下のよう述べているのは、興味深い:
「また、晩年のシューリヒトは、このようなチェック(=録音後のプレイバックによるチェック:引用者)自体が無意味な指揮者でした。彼は老いて呆けていたのです! リハーサルでも、いったんタクトが止まってから繰り返すたびに、テンポはそれまでとまったく異なってしまい、オーケストラは面食らいました。デッカが彼の晩年に録音をしなくなった理由は、こうしたものです。デッカ時代つきあいのあったプロデューサーがEMIに移ったため、そのよしみでかろうじていくつかの録音がEMIに残されました。
そのEMIの録音の中でも有名なブルックナーの交響曲へのアプローチが、『第八番』と『第九番』で正反対ほどに異なっているのは、このためです。これを評して「即興的」などと褒めるナイーヴな批評家はいないでしょうね?」(「クラシック、このすばらしき神話的世界」、青弓社編集部編『オーディオ道入門』青弓社、寺子屋ブックス23。2001年、71頁)
これは、晩年のシューリヒトの評価を、かなり毀損する言説ではないか(と読めてしまう)と思われ、ほんとうなら、それはそれで無視できないことがらだと思う。
この説は、『オーディオ道入門』という、クラシック本道のファンの目にはあまり触れないと思われる書籍に載ったためか、あまり引用されない(されている?)ように思うのだが、嶋氏は、ここで確実な情報源はおぼろげにすら示していない。
嶋さんは、音楽雑誌などの執筆にもあまり見かけないのだが、この言説が影響しているのだろうか、と邪推してしまう。
もうすでに典拠を開示されているのかも知れず、私が知らないだけなのだろうが、このような言説には相当の責任が伴なうのではないか、と思う。
というのも、上掲、1963年のライヴが、まさに嶋氏の言を示唆するかのようにテンポが大きく動きながらも、コンサートは成立している、からである。
認知症の指揮者が、ここまで指揮台で「踊る」だけで、名オケは名演を成しとげられるのだろうか?
嶋氏については、菅野沖彦氏の録音の仕事を考究・集成した業績(『菅野レコーディングバイブル』、ステレオサウンド社。すばらしいマスタリングのCD付きとのこと)が、中野 雄氏に高く評価されている(『新版 クラシックCDの名盤』文春新書、130頁)ことも、付記しておくべきだろう。
おっと、二人で長くなりすぎた。
これまた日本に、ファンというより‘崇拝者’が多い、ギュンター・ヴァント Günter Wand(1912-2002)。
60代までのレコードは、ケルン放送響を振ったブルックナー:交響曲全集(Deutsche Harmonia Mundi → Sony BMG)以外、ほとんど聴かれるようなものがない、アンダーレイテッド・コンダクターだったのが、最晩年に「神」になった。
写真はベルリン・フィルを指揮したブルックナー。第8番は、いちど手放してから再購入していない。
左の第7番のほうが、1998年録音と新しく、マエストロ86歳ということに。
ピアニストにも、高齢ですばらしい録音を残す人がいる。
写真左上は、有名なルービンシュタイン(1887-1982)/メータ/イスラエル・フィルによるブラームス:ピアノ協奏曲第1番(Decca。キング盤です)。
1976年の録音なので、89歳の録音!
その右は、クラウディオ・アラウ(1903-1991)の、1986年デジタル録音のベートーヴェン(Philips)。
下段左は、フランスのヴラド・ペルルミュテール(1904-2002)のショパン。この英Nimbus盤は、1981、82年の録音なので、70代後半の録音になる。
右は、ルドルフ・ゼルキン(1903-1991)晩年(1987年)、84歳の時のライヴ録音で、ベートーヴェンの後期三大ソナタ。
DGのリリースだが、オーストリア放送協会音源で、ここの録音は、上のシューリヒトなどの復刻もそうだが、だいたいよくない。
これら、超高齢・大ピアニストたちの演奏、指のまわりはやはり彼らの若い時、あるいは若い名人たちより遅くはなっているだろうけれど、味わいは‥‥と言えるほどには私、聴き込んでいないのです;;。
アラウの『悲愴』は、評論家陣にも高評価、第2楽章のあの有名な旋律を、しみじみと弾いており、じっくり聴くべき演奏。
EMI時代のステレオ録音(最近、集成されました)ですら50代後半で、宇野功芳氏はこのころのアラウは「にぶい」とあまり評価しない。
私は、セラフィムの国内盤LPで、ベートーヴェンの協奏曲第1番(指揮はアルチェオ・ガリエラ)を聴いていたことがあり、颯爽とした演奏で、第1番には合うが、深みは感じなかった。
80年代、デジタル期の録音が価値高いのだが、廃盤が多いのなんの。
― という、超高齢じいさん音楽家たちの残した、世界遺産級の名盤群でした。‥‥クレンペラー、はしょりました^^;;。