‥‥はてさて、2月に入ろうとしてます。
なんで2月を気にするのか‥‥いや、まずもう生活がどうしようもなくなってきていること、そして、暦では2月4日の立春から、ホントウに乙未の新年が始まる、という次第。
旧暦の新年が、自分の九星での本命星・八白土星が北=坎宮に回座する厄年になる。
‘この前’の、つまり9年前の厄年には、ポリープ型大腸ガンが発症し、切除してもらったことがある。
その前年には、失職の恐怖を感じたあと、湿疹の異様な悪化を見た(その後も軽くはなったが継続中)。
ず〜っと、のことではあるが、街にも電車内にもほんとうに高齢者が増え、その多くの無表情を極めたような顔つきに、「自分はあの歳になってももうちょっとマシな表情を…」と、自分を特別視、&同時にこれは他人を蔑視している。
全く同時に、どう考えても「老後破産」に近づいている自分に比べ、どのような立場・職業・人柄であれ、年金をもらえるまで社会で勤め上げた、また、老後の資産を蓄えるに至った高齢者に対して、いいようなく‘恥ずかしい’という思いが心の底を離れる時がない。
高齢者のことに関して、あるブログへのコメントに、このようなことを書き添えた時、ブログ主さんからは「自分を恥じることはない」旨の暖かい言葉をいただいた。
同時にそれは、「卑屈な精神的態度でいるべきではない」というお叱りでもあったのではないかと思う。
こういう記事を書いてアップすること自体、恥ずかしい、かつ「卑怯な」ことだと思う。
昨夏は、易を立てるばかりの日々であったり、傍目には(いやほんとうに自分でも;;)‘神頼み’な、自分の努力は一切しない生き方をしている。
9月以降は予想以上に仕事は増えたけれど、8月までが異様だったので、どうしようもない。
身内には、「警備の仕事でも考えたら?」と言われるが、今までその辺に踏み出していないのは、「センセイ」と呼ばれる‘楽’な仕事に執着していたからであり、警備員の仕事などを無意識に軽蔑、とまでいわぬにしても「それはやりたくないなー」と思っていたからである。
その辺に、やはり、それこそエックハルト・トールのいうところに従えば、「自分が思考でもって作り上げたニセのアイデンティティに執着している」弊があるのだろう。
今の(減らされてきた)仕事は、皮肉にもほんとうに充実を感じていて、少ないコマ数の中で可能なかぎりの解説を、生徒には提供している‘つもり’ではある。
が、今までの経験からもそんなことはキャリア・収入には一切関係ないがごときであるし、業種自体がもはや衰退傾向にある。
が、傲慢にも、その仕事さえルーティンに感じることはあって、「自分には何かもっと自分の能力を活かせることはあると思うのだが」と思ったりもする。
宝くじ云々のトピックを出した時、「それは最も確率の低い行動だ」と言われることがあるが、そういう人は、決まってきちんとした就職先や生業がある。
私は、少なくとも自分に関しては、自分の努力や能力でよりよい仕事が得られたり、収入が上がったりするということは、全く皆無(語の重複だが)だと思っている。
― さて、こんなことを書いたあとでだが、こういうマイナス感情・マイナス思考こそがエックハルト・トールがいう、私の「ペインボディ」なのである。
こんな心情を手放さないかぎり、状況の好転はない、というのが、E.トールの説だ。
E.トール説への支持を掲げているブロガーさんの「清らかな願望の達成を目指す人が生活に困ることはない」なんていうタイトルを読むと、いかに私が「清らかな願望」を持っていないか、ということが身に沁みてくる。
誤解のないように ― このブログさん、なかなか面白そうで、これから読ませてもらいたいと思っている。
「時間のない、「いま」に在ると、しばしばなにも骨折りをしないのに、予想もつかない具合に状況が好転することがあります」(エックハルト・トール『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』徳間書店、278頁)の一文を、昨夏からまさに‘神頼み’で繰り返し読んでいるけれど、どうも実感がないことからすると、まだまだ「「いま」に在る」ことができていないのだろう…。
これは、臨済義玄が「儞(なんぢ)、如今(いま)の応用(おうゆう)の処、什麼(なに)をか欠少する」(『臨済録』)というのと全く同じことだが、この臨済禅師の言、やはり‘どう実践していいか’わからない‥‥アタマでは、なるほどそうだ、と思うのだが。
いよいよ困窮し、それでもバチ当たりに自炊した夕飯を、たぶんそうとう高額な年金をもらっている独居老人の方よりはずっとおいしく、孤独感も感じず(ここがまた問題)、毎晩いただいている(いつまで食える?)。
そして、街に出るごとに、若い(私からすれば40代以前の)女子の、暖かい日にはやや露出気味になるフトモモに、視線は流れてゆく…。
にもかかわらず、人生で恋愛体験も性体験も一切ない‥‥のだが、これは自己否定的であるとともに肯定的にも、よかったと思っている。
少なくとも、恋愛・性・結婚というレヴェルで異性を不幸にすることはしていない、ことになる。
子どもを育てる‘甲斐性’もない者がセックスをするなど、とんでもないのだ。
― お〜っと、ここでまた「ペインボディ」が鎌首をもたげてきた‥‥のか、しかしこれはまっとうな認識でもある。
これの欠如で、どれだけの悲劇が世に起こっていることか!
‥‥‥しんどくなってきたので、この辺で。なんかいいこと、ありますように m(_ _;)m。
なんで2月を気にするのか‥‥いや、まずもう生活がどうしようもなくなってきていること、そして、暦では2月4日の立春から、ホントウに乙未の新年が始まる、という次第。
旧暦の新年が、自分の九星での本命星・八白土星が北=坎宮に回座する厄年になる。
‘この前’の、つまり9年前の厄年には、ポリープ型大腸ガンが発症し、切除してもらったことがある。
その前年には、失職の恐怖を感じたあと、湿疹の異様な悪化を見た(その後も軽くはなったが継続中)。
ず〜っと、のことではあるが、街にも電車内にもほんとうに高齢者が増え、その多くの無表情を極めたような顔つきに、「自分はあの歳になってももうちょっとマシな表情を…」と、自分を特別視、&同時にこれは他人を蔑視している。
全く同時に、どう考えても「老後破産」に近づいている自分に比べ、どのような立場・職業・人柄であれ、年金をもらえるまで社会で勤め上げた、また、老後の資産を蓄えるに至った高齢者に対して、いいようなく‘恥ずかしい’という思いが心の底を離れる時がない。
高齢者のことに関して、あるブログへのコメントに、このようなことを書き添えた時、ブログ主さんからは「自分を恥じることはない」旨の暖かい言葉をいただいた。
同時にそれは、「卑屈な精神的態度でいるべきではない」というお叱りでもあったのではないかと思う。
こういう記事を書いてアップすること自体、恥ずかしい、かつ「卑怯な」ことだと思う。
昨夏は、易を立てるばかりの日々であったり、傍目には(いやほんとうに自分でも;;)‘神頼み’な、自分の努力は一切しない生き方をしている。
9月以降は予想以上に仕事は増えたけれど、8月までが異様だったので、どうしようもない。
身内には、「警備の仕事でも考えたら?」と言われるが、今までその辺に踏み出していないのは、「センセイ」と呼ばれる‘楽’な仕事に執着していたからであり、警備員の仕事などを無意識に軽蔑、とまでいわぬにしても「それはやりたくないなー」と思っていたからである。
その辺に、やはり、それこそエックハルト・トールのいうところに従えば、「自分が思考でもって作り上げたニセのアイデンティティに執着している」弊があるのだろう。
今の(減らされてきた)仕事は、皮肉にもほんとうに充実を感じていて、少ないコマ数の中で可能なかぎりの解説を、生徒には提供している‘つもり’ではある。
が、今までの経験からもそんなことはキャリア・収入には一切関係ないがごときであるし、業種自体がもはや衰退傾向にある。
が、傲慢にも、その仕事さえルーティンに感じることはあって、「自分には何かもっと自分の能力を活かせることはあると思うのだが」と思ったりもする。
宝くじ云々のトピックを出した時、「それは最も確率の低い行動だ」と言われることがあるが、そういう人は、決まってきちんとした就職先や生業がある。
私は、少なくとも自分に関しては、自分の努力や能力でよりよい仕事が得られたり、収入が上がったりするということは、全く皆無(語の重複だが)だと思っている。
― さて、こんなことを書いたあとでだが、こういうマイナス感情・マイナス思考こそがエックハルト・トールがいう、私の「ペインボディ」なのである。
こんな心情を手放さないかぎり、状況の好転はない、というのが、E.トールの説だ。
E.トール説への支持を掲げているブロガーさんの「清らかな願望の達成を目指す人が生活に困ることはない」なんていうタイトルを読むと、いかに私が「清らかな願望」を持っていないか、ということが身に沁みてくる。
誤解のないように ― このブログさん、なかなか面白そうで、これから読ませてもらいたいと思っている。
「時間のない、「いま」に在ると、しばしばなにも骨折りをしないのに、予想もつかない具合に状況が好転することがあります」(エックハルト・トール『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』徳間書店、278頁)の一文を、昨夏からまさに‘神頼み’で繰り返し読んでいるけれど、どうも実感がないことからすると、まだまだ「「いま」に在る」ことができていないのだろう…。
これは、臨済義玄が「儞(なんぢ)、如今(いま)の応用(おうゆう)の処、什麼(なに)をか欠少する」(『臨済録』)というのと全く同じことだが、この臨済禅師の言、やはり‘どう実践していいか’わからない‥‥アタマでは、なるほどそうだ、と思うのだが。
いよいよ困窮し、それでもバチ当たりに自炊した夕飯を、たぶんそうとう高額な年金をもらっている独居老人の方よりはずっとおいしく、孤独感も感じず(ここがまた問題)、毎晩いただいている(いつまで食える?)。
そして、街に出るごとに、若い(私からすれば40代以前の)女子の、暖かい日にはやや露出気味になるフトモモに、視線は流れてゆく…。
にもかかわらず、人生で恋愛体験も性体験も一切ない‥‥のだが、これは自己否定的であるとともに肯定的にも、よかったと思っている。
少なくとも、恋愛・性・結婚というレヴェルで異性を不幸にすることはしていない、ことになる。
子どもを育てる‘甲斐性’もない者がセックスをするなど、とんでもないのだ。
― お〜っと、ここでまた「ペインボディ」が鎌首をもたげてきた‥‥のか、しかしこれはまっとうな認識でもある。
これの欠如で、どれだけの悲劇が世に起こっていることか!
‥‥‥しんどくなってきたので、この辺で。なんかいいこと、ありますように m(_ _;)m。