新しい‘お助け本’として、エックハルト・トールの『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる(The Power of Now)』をいちど通して読み、また最初からゆっくり読んでいる。
‘スピリチュアル’っぽい要素はあまりなく、きわめてシンプルな‘生き方・考え方指南書’といった趣きがある。
ともかく骨子は「今に在れ」というひとつことに尽き、ときおり臨済などを引用するが、その『臨済録』の
「随処作主、立処皆真(随処に主と作(な)れば、立処みな真なり」と言うのなどに即、通じる(岩波文庫で積ン読だった『臨済録』も、通勤の車中でほぼ読んだ)。
反対に、彼の教えで、人間を不幸に縛り付ける悪しきファクターは ― 一人歩きする時間観念や、その元となる思考、ネガティヴな思考が身体に共鳴した感情、といったものだ。
その中でも、過去からの不快な感情が凝集して実体化したような感情を、
「ペインボディ Painbody」と称して、これを見極めて意識の光に曝すことで、これの力が消失し、影響から解放される、と言う。
『さとり…』を読んで、その言説がじつに全(まっと)うであり、実践の手引きとしても哲学的思惟への示唆としてもたいへん有益だと思ったと同時に、私自身の内面に蓄積され、ある意味マグマのように‘活きいき’と脈打つ「ペインボディ」のエナジーの大きさに、改めて強烈に気づいた。
このようなペインボディが強烈に作動すれば、通り魔のような犯罪は容易に起きるだろう。
秋葉原で通り魔を実行したKなどは、まさに全人格を自身のペインボディに明け渡した実例だ。
私が、自分のペインボディの大きさに驚き、戦くというのも、E.トールのいうように「いまに在る」べくいくら努めても、過去に関するネガティヴな思い=ペインボディが、常に‘活線’の状態で意識のすぐそばにあるということなのである。
不用意に触れさえしなければ、手の近くに400〜800Vの電圧のかかった活線があっても、それだけで感電はしない。
しかし常にそのような状態で暮らすというのは、なかなかのストレスである。
E.トールがいう「強烈にいまに在る」ことは、ちょうど高圧アンプを調整する際に手袋をするようなことになるのだろうけれど、手袋と違って気が緩めば‘感電’するのである。
視点を変えると、この「ペインボディ」はしばしば集合的 collectiveなものになりうる。
その典型が「イスラーム国」だ。
メディアがイスラーム原理主義テロリストの犯行を伝える時、「イスラームそのものは平和的で、決してテロを是とするものではない」という、ある種免罪符的コメントを付加することが多いけれども、イスラーム国の所業は、そういったコメントの浅薄さをみごとに嘲うごとく、残虐だ。
「イスラームそのものは平和的」と糊塗すればするほど、「イスラームの中の残虐性」が集合的に凝集・実体化してイスラーム国をますます強めていっている。
ユダヤ・キリスト教、ヘレニズム、近代的民主主義の伝統が息づく欧米社会の中から、イスラーム過激主義に呼応する若者がなぜこんなに輩出するのか。
NHKの『クローズアップ現代』や『ニュースWEB』で呼ばれるゲストが行なう説明は、ほとんど「彼らの巧みなネット利用宣伝」に終始している。
聞いていて、こちらの知識不足を棚に上げてしまうけれど、ほんとうに、救いようがないほど浅薄だ。
こうした専門家たちには、心理学やイスラーム思想史の、知識はともかく、そういったファクターの考察が必要だという認識そのものが、根底から欠如しているように感じる。
イスラーム研究の権威だった井筒俊彦氏の研究は、研究対象への好意があるのは当然としても、どうしても哲学思想面に重きを置き、政治的考察に乏しい嫌いはあるような気がする。
そんな井筒氏の著書ではあるが、イスラームのいわゆる宗教指導者、ウラマーについて語る部分で以下のように言っている。
「ウラマーの政治的権力は実に絶大なものであります。なぜなら、いったん異端を宣告されたが最後、その人、あるいはそのグループは完全にイスラーム共同体から締め出されてしまう。‥‥(中略)‥‥「イスラームの敵」になったものの刑は死刑、全財産没収。個人の場合はもちろんそのまま死刑。異端宣告を受けたためにどれほど多くの人が刑場に消えていったか、数えきれません。」(『イスラーム文化』岩波文庫(初出版1981)、48〜49頁)
イスラームのオーソドキシーは、ある部分、明瞭に暴力によって決定・継承されてきた ― 他の一神教にもその要素がなかったわけではないが ― という史実を覆い隠してよいはずはなく、むしろ現代のムスリムに対して、この部分の総括をどう求めてゆくのかが、非ムスリムの責務ではないかとも思う。
片倉もとこ氏の『イスラームの日常世界』(岩波新書、1991年)は、民族学者としてのプロの目で、しかもくだけた日常的視点でイスラームの生活実態を描いている好著(ただし私は拾い読みていど)だが、その終わりのほうで、イスラーム原理主義の動向調査をする英国人のことばを伝えている:
「恐ろしいと思うのは、大事件をおこすテロ集団の突発的な行動ではない。むしろふつうの家庭に育つ中学や高校の生徒たちが、ある日突然のようにイスラーム服に身をつつみ、熱心なムスリムになる。そして西洋服の母親や酒を飲む父親を批判しはじめるという現象が、あちこちの家庭でおこっているということだ。マスコミにも報道されないうちにジワーッとくる日常的変化だ。若い世代に浸透して、ジワジワと進行しつつある地殻変動は、世間をさわがす表立った“事件”よりも、恐ろしい」(216頁)
こういったところを掘り下げる視点を、テレビにおけるイスラーム・テロの報道では全くといっていいほど見たことがない。
もっとも、本エントリーもそういうところを掘り下げる意図も、私の知識もないのだが、そうこうしているうちに、E.トールのいう「ペインボディ」が、ほんとうに集合的なものとして、実体化したというのが実感だ。
イスラームの中の最も暗黒な部分と、現代世界の若者の中の実体化までせざるをえなくなるほど膨張した「ペインボディ」が、引き合い、融合・共鳴して「イスラーム国」を日々強力なものにしていっているように見える。
こんな集団に、よりによって参加しようという若者がわが国からも出てきた。
とんでもない、と言わない人はいないし、私もそうだけれど、「とんでもない」と言う向きの中には、こういう心境に至る者の気持ちには一切目を向けていない人もいるのではないかと思う ― もちろん、そうでない人もいることもわかるが。
現在、高齢化しても反戦の意思を何らかの形で強く表わしている方たちは、何といってもその動機が実際の戦争被害であることが多い。
まことに皮肉で、かつ決定的に悲劇的なことだが、戦争の恐ろしさを真に「知る」には、戦争被害を体験するしかないのだ。
実際にイスラーム国に参加して、予想とは全く違う「戦争」を体験して、そこでトラウマを得る若者が増えれば、それはそれで、恐ろしいプロセスではあるが、自身の、あるいは人類普遍の「ペインボディ」に気づく可能性は大いにある。
もっとも加えて痛ましいのは、気づいたとしてもそこから「癒える」ことは不可能かもしれないところだ。
そうではあっても、それは「魂の破壊」とともに、最後のその若者の「気づき」になりえる‥‥いや、これは私の「ペインボディ」がこんな残酷なことを言っているのかもしれないが。
イスラーム国の真っ黒な「国旗」は、内包するペインボディの深さを象徴している。
こうした共同体は、内部で日常的に相互殺戮も行なわれているはずで、そういったところを参加者が味わうことも、かつての連合赤軍などのさらにスケールアップしたものになるだろうし、まことに悲惨だが、彼らはそれを味わっていくしかない。
こうした暴力支配の要素は、そもそも井筒氏が述べたように、イスラーム共同体に歴史的に存することではあったし、北朝鮮なども数十年にわたって変わらないので、ずっとこのまま成長し続けるかもしれないが、あまりの暴力過剰支配は、内部崩壊を来たさないとも限らない。
いっぽうで、エボラ出血熱のような、自然からの脅威が恐ろしい勢いで人類に迫ってきている。
ニュースを見ていると、最も恐ろしいものは「外」にあって、「外」に対してどのような防御をするべきかと言うばかりであるが、内面の「ペインボディ」は、真に恐るべきものだと思う。