いっや〜、オモロい^^。
この人の“物語”そのものは、ウソでなかったなら、“物語”そのものに加えて大勢がこぞってその“物語”に陶酔し、讃美し、感動することにイチャモンをつける筋合いがなかった。
いや、この「イチャモンをつける筋合いがない」ことも、少なからずちょっと違和感があったのだが‥‥。
そして、「ウソでしたぁ〜」ということになれば、上の《違和感》が、圧倒的正当性をもって表てに出てくる。
“物語”がほんとうだったにしても、あの風貌と、放送局(=とりもなおさずNHK!)やレコード会社の作り上げるイメージは、異様だった。「キワモノ」臭が鼻をついた。
新井克弥という人が、〈BLOGOS〉上に寄せている記事では、ことの本質を
・メッセージ1=楽曲自体
・メッセージ2=“佐村河内物語”
の二つに分け、ウソの発覚で人々が不快に感じるのは、「メッセージ1」に感動していると思い込んでいたものが、実は「メッセージ2」に感動していたことに気づいて不快に陥った、と説明している。
新井氏の分析はたいへん明快で異論の要もないと思う。
ここで重要なのは、「メッセージ2=佐村河内物語」がウソであったから不快になった、というより、新井氏のことばを借りれば、
「「HIROSHIMA」が世間に知れ渡ったのは楽曲それ自体よりも、「佐村河内」というメディアのメッセージ性に基づいたから」であり、「自分が「新垣」=メッセージ1を聴いて感動していたとばかり思っていたのが、実は「佐村河内」=メッセージ2に感動してメッセージ1を聴いていただけ、つまり間違って聴いていたということ」に気づいて不快感を覚えた、ということなのである。
そう。どれだけ大勢の「佐村河内ファン」が「音楽」ではなく、「物語」を楽しんでいたか、ということだ。
米誌が、彼の“物語”を「現代のベートーヴェン」と紹介したのは、全聾という彼の設定がベートーヴェンと呼応するという意味でだっただろうが、それだけでなく、ベートーヴェンが、音楽よりもむしろ、その人の物語によって尊敬される作曲家であることが含意されていたはずだ。
で、これはわが国でとくに濃厚・顕著なファクターなのである。
けれども、ベートーヴェンの楽曲と、その“物語”との関係は、あくまで楽曲(群)が先行する。
例の《月光》ソナタの逸話も、「運命が戸を叩く」の“物語”も、「ハイリゲンシュタットの遺書」の意味も、彼の「楽曲」の説得力を、同時代のヨーロッパ人が耳で聴いて認めたのちに派生してきたことだ。
佐村河内氏は、これを逆転して、“物語”を先行させて大儲けをしおおせたのである。
ここには、「楽曲」よりもまず「物語」だ、というわが国の音楽享受の、一種、“伝統”が与って決定的に機能している。
音楽家の身体的障害や「不遇」と、それを克服して美しい音楽を奏で、それが認められる、という“物語”、これが何よりも味わわれ、感動され、讃美される。
今回の件で鮮明に思い出したのは、『はてしない物語』におけるミヒャエル・エンデのメッセージだ。
『はてしない物語』は、ファンタジーの世界=「ファンタージエン」と、それに関わる主人公たちのお話である。
「ファンタージエン」は、いつしか「虚無」に侵食されはじめる。ファンタージエン内の住人たちは「虚無」に呑み込まれ、私たちの「現実」に流れ込んでくる。
虚無に呑まれて現実界に流れ込んだファンタージエンの存在は、どうなるのか。
作中、ファンタージエンの住人で主人公の一人でもあるアトレーユに、同じくファンタージエンの存在・人狼グモルクがこの事態を語る件りがある。
グモルクがアトレーユに聞く。
「おまえ、虚無を見たことがあるかい、ぼうず?」
アトレーユは、
「何度も見た。」
「どう見えた?」
「盲(めしい)になったようだ。」
「うん、そうだろ。― そこでだ、おまえたちがその中にとびこむと、そいつがおまえたちにとっつく、その虚無がだぜ。おまえたちは伝染病の病原みたいになって人間どもを盲目にしちまう。やられた人間どもは見かけと現実の区別がつかなくなる、とこういうわけだ。あっちでおまえたちのことをなんて呼んでるか知っているか?」
「知らない。」とアトレーユは低い声でいった。
「虚偽(いつわり)だよ!」グモルクは吐きだすようにいった。
(『はてしない物語』上田真而子・佐藤真理子訳、岩波書店、1982年、200頁)
この前後の、「虚無」と「虚偽」についてのアトレーユとグモルクの対話には、まことに尽きない意味・示唆がちりばめられていて、ここ十数年の日本社会を考える上にも味わうべきものがある。
エンデとその代表作の、じつに
重要なのは、この(本来の意味での)「物語」をグモルク=エンデのいう「虚偽」に変換することによって、むしろ大勢が「感動」し、「夢」を育み、生きることの糧にしているのが現今の日本社会だ、ということだ。
この「虚偽」は、内容が事実であるか虚偽であるかは、この際問題ではない。
佐村河内事件は、モロの「虚偽」であったゆえ、まさにエンデの警告が容赦なく的を射た形になった。
東日本大震災以後、世は、真偽を問わずこの種の「物語」を喧伝し、「絆」を連呼することを美とし、正義とすることに腐心し続けてきた。
むしろこの風潮に異を唱えることを圧迫的に禁ずるような雰囲気が固まりつつある。
そのいっぽうで、日常的に老人たちが「オレオレ詐欺」に遭い続けている。
被害者たちは、むしろ積極的に犯人の作り出す“物語”に乗ろうとしているかの如くだ。
もう削除されていると思うが、CDの発売元・日本コロムビアがYouTubeに、かのNHKの制作した特番の映像を使ってだったろうか、“感動的な”Vをアップしていた。
そこでは、指揮者やヴァイオリニストが、楽曲のすばらしさを讃えていたけれど、演奏に当たって、作曲者に具体的に表現や奏法を ― 手話通訳を介してでも ― 直接質すことはなかったのだろうか、という疑問は強く残る。
NHKは、原子力発電の過去と原発の現在を、憚ることなく伝える姿勢を示していて、それはそれであっぱれなのだが、“佐村河内事件”の責任は、どう取るのかわからない。
原発被害報道も、じつは「あと出しジャンケン」であることも、受信料を払っている視聴者は忘れてはならない。
NHKが、いかに憚ることなく、これまでの原発行政・原発運営の問題を報道しても、そのことによって故郷に帰還できるようになる避難者は、たったのひとりさえもいないのである。
さて ― 最後はジョーダン。
オーディオ機器に手を入れ、あるていど納得のいく音が出るようになると、私はシンフォニーを大音量で鳴らし、・私が作曲者でもなく、・私が演奏者でもなく、・私がマエストロでもないのに、スピーカーに向かって得意になって指揮をしている^^。
最近はこれを、「サムラゴーチル」という動詞(ラ行五段活用でもタ行上一段活用でもOK^^)で表現しておりまス。