端境期…。

 3月は、仕事面が例年端境期で、4月末の振込み額は雀の涙ほどもない。
 が、30ヶ月ぶりに引いた風邪の経過のためにはせめてこれでよかったのかもしれない。

 歯のブリッジ部の奥の炎症(と思しいもの)は、くっさ〜い膿に血が混じるところまで行き、続くとさすがにマズいと思ったけれど、すぐなくなってしまい、身体というものは実によく考えてくれているなあ、と感心。
 やはり、「身体の深層の働き」を徹底して信頼することが重要だと思った。

 もちろん、変化に敏感であることも、身体を信頼することのうちに入るもので、食事を「ほんとうに食べたい」分量以上に食べないことも肝心。
 ただし実行は難しい。どうしても、炊いた分のご飯は食べ、皿に乗っているおかずは食べきってしまう。
 これが、のちの諸病の根源になるのだが、最も追放しがたい惰性でもある。

 このところ、それで、食欲が落ちている。仕事のない日はとくに運動不足というより運動欠如、なのだが、1回めの軽い食事のあと、7〜10時間たっても、そんなに‘お腹が空いた’感が起こらない。
 折りからの収入急減期でもあり、食費を節約するいい機会とも考え、ご飯は少なめに炊き、おかずも最小限で済ませるようにしている。

 その他にも、体調は不安定で、5時間くらい眠って、あと眠れなくなる日と、10時間以上寝て起きられない日が、交互に来たり。

 今日は安保法制の施行日ということで、よくお邪魔するブログでも抗議デモの記事があったりして読む。この件でググると、反対派への罵詈軽侮を並べ立てる「ネトウヨ」群のサイトにもぶつかり、不愉快極まりない。
 だいたい‘右派’のほうは、そのリテラシーで“人品骨柄”が丸わかりで、ネット上でやりたいことは、事の本質より、自分が反対する対象をキタナいことばで罵ることだとわかる。

 安保法制反対派の方のブログの中で、スタンディングやデモの発信を受け止めてくれない通行人たちについて、「人は聞きたいことしか聞かない」と嘆いておられるのを見た。
 が、これは、戦後からずっと、「護憲派」およびそちらに近い側の人びとにも、かなりの部分、判で押したごとくに該当するように思う

 こと政治に関しては、インターネット上の発言というのは、「事の性質」はどうでもよく、自分の見解を発し、反対者を罵詈するという機能がほとんどを占めているような気がする。
 それぞれのサイト・ブログには、稀に反対者からの罵倒が入る以外は、「お説ごもっとも」的‘仲間内賛意’のみがコメントされる。

 こうしたことを見ていると、とくに安保法制などに関しては、ネットからは何も情報は得られないのだなぁ、と痛感する。
 中東では、あの、ネット・SNSの威力絶大だったという「アラブの春」以降、かえってイスラーム過激派のテロが増え、ついにISなどというものが現われた、という目を背けられない現実がある。

 私のブログは、オーディオという、ネットのやりとりがなかった時から多くの人たちが趣味としてきたものを、まず中心にしている。
 こういう、まずは「リアル」が存在する世界では、見解の合致や対立はあるのだが、「コトバだけの暴走」ということは、あまり起こらない(のではないか)と思う。

 どのようなものであれ、オーディオ機器はエレクトロニクスがまず基本にある。
 テレビでは、「重力波」とか「量子もつれ」とか、最新の科学トピックが紹介されるが、一般の生活者の人びとの中には、たとえば、AC100V電源を使うテレビやAV機器の中には、100Vの電灯線のラインが、途中で低圧化されたりしつつ、そのまま機器の中に入っていると思っている人が多いのではないだろうか(いや、それはないかな^^;)。

 少しでもオーディオに突っ込んでいる人は、エレクトロニクスの基本は押さえている、ないし、押さえようと努めているので、議論は、個々の嗜好とともに、事実と論理に基いたものとなりやすい。

 この辺が、ネット以前にリアルとして存在する分野の、ネットにおける、ある種‘安定’と‘堅牢さ’のもとなのだと思う。

 ところが、こと政治となると、ことばのやり取りで相互の考えを精密化してゆくというプロセスに、我われ非-欧米人は、あまりにも、あまりにも馴れていない。

 ‥‥さて、明日(日付は今日、か)、交換されたアンプの良品が到着予定。
 ほんとうに、昨年11月以降、私の経済状況ではトンデモナいオデオ浪費の嵐だった。
 もうちょっと残高を残しておかないと、ほんとうに5月以降の生活がたいへんになる可能性もあるのに、こんなことをしてしまう。

 世の、景気のお話になると、テーマになるのが、内需=消費の拡大。
 ‘エントリー・クラス’の趣味の品を購うのに、こんなに無理をしているのだから、一般的な消費は、ひたすら緊縮となる。

 世の中一般は、どうなのだろうと思うが、アベノミクスが成功したとか失敗したとか言ってみても、すでに野党のどんな党・政治家が政権担当しても、国内消費なんかよくなるはずもないし、消費税を5%に戻したってよくはならない。

 そうなると、選挙直前に「消費税の再増税は敢然と延期!」をブチあげる安倍自民党がまた大勝する=国民が大勝させる のは疑いない

 それで景気がよくならなくても、だれもさして不満は持たないし、経済的に少し上層にいる人びとは、株価高などでおいしい汁が吸える。

 非正規雇用を中心に、「下」のほうにいる市民は、せめて消費税が10%にならないほうを選ぶし、だからといって、可処分所得はもうギッチギチの状態で、その上、最近は生活上出てくるゴミの処理も多くの自治体で有料化しているし、家電を廃棄するにもお金がかかるから、ますますモノを買う意思が殺がれる
 エコノミストや経済・消費アナリストといった連中の口から、こういうテーマが出たことは、ほとんど聞かない。

 が、今夜聞いていた、《荻上チキの Session-22》で、チキ氏が、「もう内需の拡大なんていっても、可能性のある分野なんかないよとよくおっしゃる方がいるが、今問題になっている保育の分野などは、保育士さんの待遇を改善して子どもたちをどんどん受け容れれば、そこに需要はいっぱいあるじゃん!」と言っていた。
 いっぽうでこういうことなのである。

 ではあるが、私のいる分野などは、人件費、超キ〜ッチキチでやるしか方向性のないところであるし、その中でも私自身などは、いないほうがよい存在かもしれないことを時に感じつつ、それをわかって生きているって、なんだかなぁ、ではあるが、「今」の時を過ごすだけである。

AV機器売り場で雑感。

 オンキヨー C-7030、なかなかいい。
 ピアノのリアル感、美音感はそうとうなもの。
 弦と弦楽合奏が、ややメタリックな色あいを帯びるが、全体として「音楽的」といっていい傾向だ。

 動作はほぼ問題ないのだけれど、ディスク途中のトラックから演奏を始めるとき、ディスクやトラックによって、ミューティングが解除される際に「プチッ」というノイズが、左チャンネルだけに入ることがある。
 これを初期不良といえるのかどうか‥‥保証期間中にいちどメーカーにメールくらいしてみようかな。

 音質的に面白いのは、今まで、マスタリング面で「のっぺり」しすぎると感じていたもの、たとえば、マーラー;交響曲第4番のアバド/ウィーン・フィル盤(DG)は、O.I.B.P.リマスター盤を買い戻したのだったが、C-7030では、O.I.B.P.盤の倍音が少し不自然に響く。
 いいかえると、非リマスター盤でも十分美しく、リアルな再生音が聴けた。

 いっぽう、この時にO.I.B.P.盤を買い足しているベーム/ベルリン・フィルによるブラームス:交響曲第1番は、両方国内盤なのだが、C-7030ではどちらもホコリっぽい音がする。

 いずれにせよ、アンプも入れ換えの可能性が濃厚なので、そのあとの試聴で決めたほうがいいかも。

ヨドバシ名古屋店のテレビ売り場

 今回、C-7030はヨドバシカメラで試聴はせずに買ったのだが、その際、同じAV機器売り場なので、ずらりと並んで映像を写している大型テレビ群を、イヤでも見ることになった(上の写真は名古屋店、あるサイトからいただき)。

 なんといっても、そのアットウ的な印象は、画像がもう救いようもなく きったなぁ〜い こと。
 とにかく、大型かつ高解像度を誇れば誇るほど、自然ではなく、アニメのようになっている。

 こんな大型テレビに、素直に感動している方たちは、こんなふうに少なくない。
 この感覚には、ちょっとついていけない。

 フロアに居並ぶ液晶・プラズマのテレビ群の画質は、どうしようもなく平面的で、それはむしろデバイスとしての3Dテレビを売りつける商策なのかな、と思わせさえするものだった。

 ハリウッド制作のヒーローものなどは、精緻なCGを多用して、そうした画面にマッチする部分も大きいが、アイドルが歌っている映像なんか、リアリティ、というかありていに言って‘お色気’など微塵も漂ってこない。
 これ、店舗の画面調整がマズいのだろうか。

 そんな動画・映像群に比べたら、古い書籍の口絵に、拙いカラー印刷技術で刷られた、たとえばボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》でさえ、目を瞠るほどの存在感‥‥だと思うのだけれど、そう感じる人っていないのだろうか?

 いっぽうで、オーディオ不振というのは、もう長い間の‘確定事項’になってしまっている。

 去年の情報だが、「オーディオ・ビデオ機器などが振るわなかった」はソニーは、1,100億円の赤字転落で、「AV事業の精算」を迫られている。

 これも去年の記事だが、2008年に合併したJVC(ビクター)とケンウッドも大幅減益とか。

 家電各社とも、テレビの売上げも中国勢に追い上げられて沈滞してきているようなので、「オーディオ不振」という現象が単独であるわけではない。
 それにしても上に見たように、一般市民の大型・高解像度テレビへの欲求はかなり強い。
 そこから、「オーディオ不振」が、必ずしもよく言われる原因のひとつ、「住環境の狭さ」からのみやってきているのではないのではないか、と思わせる。

 生活の中で、質の高い音楽をじっくり味わう、というようなことが、生活水準格差のあらゆる層において、戦後けっして成熟することがなかったことが、よくわかる。

 いっぽうで、粗雑極まりない‘高解像度大型画面’ばかり求める感覚を持ちつつ、ペットボトルのお茶のCMに「日本人の味覚は、世界一繊細だと思う」などと、よくまあ言えたもんだ、と驚倒しないでいるほうがむずかしい。

 そして、テレビの場合、放送する側の問題も、去る2月にテレビを廃棄してNHKの受信契約を解除して以降、NHKを中心に、どんどんイッヤァ〜な方向へシフトしていることが、ネット情報から知れてきて、契約解除してほんとうによかった、と思うばかりだ。

 とまれ、こうした、いろいろな意味での ― 視聴覚的・政治的 ― 感覚の鈍重さは、今に始まったことではなく、45年前から(←私の経験の範囲内で)‘同じ’である。

 C-7030のような安い製品にでも、米Amazon.comのカスタマーの中には、クレイジーなまでに詳細なレビューを投ずる人や、自分で撮った内部写真を付するレビュアーまでいる。

 安いものには見向きもしてこなかったわが国の‘団塊世代オデオ・マニア’が、その趣味を若い世代に伝えられるはずもなかったのである。
 ※暴言多謝 m(_ _;)m ですが、ホンネです…。

記事削除の言い訳。

 今朝がた、ちょっと気になっているアンプについて、資料をググり、1記事アップしましたが、そのままにしておくと、欲しくなってしまいそうな感じがしたので、削除しました。

 8月末の収入から、家賃・滞納中の地方税などを払ったあと、残額で買えなくもなかった(セール価格なら)のですが、国保保険料の滞納分を納付するのが先決。

 そのあとも先んずる支出は多く、オーディオはちょっとストップすべきでした。
 ‥‥最低居住面積水準未満の部屋に住み、いろいろまだ滞納中という身分で、ぜいたくはいけませんでした。

こんな時に…。

 週が明けても、まだ還付の通知も入金もないので、税務署に電話したら、8日(水)に振替の手続きが取られる予定、とのこと。(追記:「…手続きの開始」だったかも。)
 通知でも「振替の手続き」の日付にはだいたい入金されるので、水曜にはちょっと動きが取れるが、2月26日の市役所仮収受→27日(金)には税務署に届いているはずだから、正味40日かかったことになる。

 ‘紙申告’(e-Taxに対する)では、1.5〜2ヶ月は見ておいてほしい、とのことだった。ネット上のあるところには1〜1.5ヶ月とあったと思うが…。
 これには、期限はないようだ。納付のほうは、期限があり、それを過ぎた日から延滞金が加算されるのだけれど‥‥まあここはシステム上仕方はない。

 滞納している市都民税には延滞金がつく。そっちのほうは待ったがない。

 こういうのを、金融では「遅延損害金」という。
 ネガティヴな物言いをします ― 私が生きている間の全ての経費は、それ自体、全額「遅延損害金」みたいなものだ。
 何の「遅延」か? 死ななかったことの、だ。 ‥‥いっけねぇ〜、ヒッドい「ペインボディ」だ。谷底にドッカ〜ンと捨てましょう。

 ことほど左様に、もっのすごいのんびり感と、スプリングを戻らないほど押し込んだような圧迫感と、そして随時核爆発しそうな激怒感とに満たされている。

 ほんとうにもうこれからは、自分が要らないものは持たない、入手しないようにしたい。
 「ちょっと、やってみようか」で買った絵の具のセットや調味料が、捨てる時にはたいへんな延滞、もとい厭怠感(ってことば、あるのかな)を伴なう。

 そんな中に、のんびり「次の部屋で、本をどんどん捨てて、アナログ・プレーヤーでも買えたら買お〜かな」などと心がホザいている。

DENON DP-300F
DENON DP-300F

 これ、なかなかよさそう。ベスタクスの BDT-‥‥ 何番だっけ、ベルトドライブの安いのがディスコンになったあと、フルオートだがセミオート的使用が可で、ベルトドライブ、がいいが、日本のメーカーの割りにデザインが秀逸だ。

 主に欧米で売ることを前提に、Regaや Pro-Jectの薄型のやつをそうとう意識していそうである。

 以前、S○nyのマニュアル安価品を使ったことがあるが、ターンテーブル自体の成型がひどく、聴感上聞こえるフラッターが出ていた。とんでもない製品だと思った。

 DP-300Fは、YouTubeで見られるユーザーの動画からは、回転するプラッターの揺れはほとんど看取できないので、まあまあなのかと思う。

 で、アナログ・プレーヤーを買ったら、LPレコードを買わなくっちゃ‥‥って、買うものあるのか?

 クラシックの場合、音質的に、国内盤LPと、最善のマスタリングのCDを比べたら、まず国内盤LPにメリットはない。
 ジャケットもおざなりなデザインのが多い。
 海外盤は音質によらずバカ高いものが多く、そんな出費をする価値は全く感じない。

 買う動機があるのは、CD化されそうにない音源だけ。
 たとえば、エッシェンバッハが TELEFUNKENに入れたバルトークのピアノ曲集とか。Warnerがマスターを持っているはずだが、CD1枚分の分量がないので、リリースできないのだろうと思う。
 おっと、書くとまた高騰したり、かっさらっていく人が出たりするとイヤだから、あとは書かない。

 まったくこの期におよんで何を考えているのか…。

ヘンな夢、ヘンな気持ち。

 土曜の晩はまた、風呂にも入らずに、夕食後すぐフトンに入って、寝た。

 こういう寝方をすると、私の場合、眠りは却って浅く、混乱した夢を見ながら眠るが、今朝(日曜朝)は5時ごろ目覚めた。
 まだひどく眠かったので、顔を洗い、水割りをちょっと飲んでから、また寝た。

 午前11時に目覚ましをセットして寝たけれど、11時には全然起きられなかったので、さらに午後1時にセットして3度寝(?)。
 1時には起きた。
 午後まで寝たのは久しぶりだ。

 そこまでの惰眠中は、ヘンな夢を見た。

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 阪急電車の西宮北口駅の改札を出たところ。
 現実には、かつてこの駅は時折り使っていたが、だいたいは通過・乗換え駅だった。この駅の周辺には実際に公営の団地があり(今はどうか不明)、そこへ入ることはなかったが、夢は、その団地の入口の階段を上がっていく場面 ―

 もう使われていない建物であることは明白で、老朽化し、階段の手すりのある壁が、触るとガサッと崩れる。管理者に連絡しないと、などと思う。

 階段を上がっていくと、元に戻ろうにも、下りる階段の下が切れていたりして、そのまま人の住んでいる部屋があったり。
 怪しいところに迷い込んだ、ということがわかる。

 別の方向に歩き、オープンになった廊下から見える中庭に人がいそうなので、声を出して呼ぶ。

 ここの施設にいる人は、ほとんが外国人で、それも何か外に出すとまずい疾患に罹っている人たちらしい。
 そういう人たちを収容する施設らしく、しかしそのことは秘密で、一般にはもうだれも住んでいない団地として、立ち入り禁止になっている、という感じ。

 地面には、さわると何か感染しそうなキタナいものが落ちている。

 私は、拙い英語で自分の状態をだれかに伝えようとする。
 私は、危害を受けることはなく外に出してもらえそうだった。

 ― というような夢。
 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 ちょっと気持ち悪かった。濃厚な夢で、ほかにもいろいろ見ていた感じ。

 金・土と、午後にちょっとまとまった仕事があり、現実を忘れるには最適だった。
 とはいえ、朝に起きて仕事をして帰宅すると、そうとう疲れている。

 仕事ではしばらく会っていなかった先輩講師に会って職場の事情も聞いた。

 私の新学期の仕事は、昨年より増えそうだが、聞いてみると、退職した講師や、出講日数を減らした講師がいるとのこと。
 何のことはない、講師が減ったので私の仕事が回復しただけで、つまりは、私はいちばんどうでもいい補充要員に過ぎなかった、ということが判明したのである。

 ― というような言い方は、まさに「ペインボディ」(エックハルト・トール説)に他ならず、メンタル、スピリチュアルによろしくないことこの上ないのだが、やっぱりそう思う。

 還付申告後、もう40日近くになろうというのに一向に通知さえないのは、もしかするとどこかで申告書が紛失されているのではないか、というような疑心暗鬼、これもペインボディなのだが、こんなことまで頭をよぎる。

 早くいろいろしなくてはならないことはわかっているが、まとまった還付金も来ないとなると、何もしようがない。
 粗大ゴミさえ出せないのである。

 そんな中で、自分自身は意外に落ち着いて、ゆ〜っくりと過ごしているように感じる。
 が同時に、も〜っのすごい激怒感、もう暴力のアクティングアウトに及んでいないことがおかしいというほどの超絶的な怨恨憎悪感も、心中グツグツと沸騰しているのも事実だ。

 うーん‥‥。

立春をひかえて…繰り言。

 ‥‥はてさて、2月に入ろうとしてます。
 なんで2月を気にするのか‥‥いや、まずもう生活がどうしようもなくなってきていること、そして、暦では2月4日の立春から、ホントウに乙未の新年が始まる、という次第。
 旧暦の新年が、自分の九星での本命星・八白土星が北=坎宮に回座する厄年になる。

 ‘この前’の、つまり9年前の厄年には、ポリープ型大腸ガンが発症し、切除してもらったことがある。
 その前年には、失職の恐怖を感じたあと、湿疹の異様な悪化を見た(その後も軽くはなったが継続中)。

 ず〜っと、のことではあるが、街にも電車内にもほんとうに高齢者が増え、その多くの無表情を極めたような顔つきに、「自分はあの歳になってももうちょっとマシな表情を…」と、自分を特別視、&同時にこれは他人を蔑視している。

 全く同時に、どう考えても「老後破産」に近づいている自分に比べ、どのような立場・職業・人柄であれ、年金をもらえるまで社会で勤め上げた、また、老後の資産を蓄えるに至った高齢者に対して、いいようなく‘恥ずかしい’という思いが心の底を離れる時がない。

 高齢者のことに関して、あるブログへのコメントに、このようなことを書き添えた時、ブログ主さんからは「自分を恥じることはない」旨の暖かい言葉をいただいた。
 同時にそれは、「卑屈な精神的態度でいるべきではない」というお叱りでもあったのではないかと思う。

 こういう記事を書いてアップすること自体、恥ずかしい、かつ「卑怯な」ことだと思う。

 昨夏は、易を立てるばかりの日々であったり、傍目には(いやほんとうに自分でも;;)‘神頼み’な、自分の努力は一切しない生き方をしている。
 9月以降は予想以上に仕事は増えたけれど、8月までが異様だったので、どうしようもない。

 身内には、「警備の仕事でも考えたら?」と言われるが、今までその辺に踏み出していないのは、「センセイ」と呼ばれる‘楽’な仕事に執着していたからであり、警備員の仕事などを無意識に軽蔑、とまでいわぬにしても「それはやりたくないなー」と思っていたからである。

 その辺に、やはり、それこそエックハルト・トールのいうところに従えば、「自分が思考でもって作り上げたニセのアイデンティティに執着している」弊があるのだろう。

 今の(減らされてきた)仕事は、皮肉にもほんとうに充実を感じていて、少ないコマ数の中で可能なかぎりの解説を、生徒には提供している‘つもり’ではある。
 が、今までの経験からもそんなことはキャリア・収入には一切関係ないがごときであるし、業種自体がもはや衰退傾向にある。

 が、傲慢にも、その仕事さえルーティンに感じることはあって、「自分には何かもっと自分の能力を活かせることはあると思うのだが」と思ったりもする。

 宝くじ云々のトピックを出した時、「それは最も確率の低い行動だ」と言われることがあるが、そういう人は、決まってきちんとした就職先や生業がある。
 私は、少なくとも自分に関しては、自分の努力や能力でよりよい仕事が得られたり、収入が上がったりするということは、全く皆無(語の重複だが)だと思っている。

 ― さて、こんなことを書いたあとでだが、こういうマイナス感情・マイナス思考こそがエックハルト・トールがいう、私の「ペインボディ」なのである。
 こんな心情を手放さないかぎり、状況の好転はない、というのが、E.トールの説だ。

 E.トール説への支持を掲げているブロガーさんの「清らかな願望の達成を目指す人が生活に困ることはない」なんていうタイトルを読むと、いかに私が「清らかな願望」を持っていないか、ということが身に沁みてくる。
 誤解のないように ― このブログさん、なかなか面白そうで、これから読ませてもらいたいと思っている。

 「時間のない、「いま」に在ると、しばしばなにも骨折りをしないのに、予想もつかない具合に状況が好転することがあります」(エックハルト・トール『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』徳間書店、278頁)の一文を、昨夏からまさに‘神頼み’で繰り返し読んでいるけれど、どうも実感がないことからすると、まだまだ「「いま」に在る」ことができていないのだろう…。

 これは、臨済義玄が「儞(なんぢ)、如今(いま)の応用(おうゆう)の処、什麼(なに)をか欠少する」(『臨済録』)というのと全く同じことだが、この臨済禅師の言、やはり‘どう実践していいか’わからない‥‥アタマでは、なるほどそうだ、と思うのだが。

 いよいよ困窮し、それでもバチ当たりに自炊した夕飯を、たぶんそうとう高額な年金をもらっている独居老人の方よりはずっとおいしく、孤独感も感じず(ここがまた問題)、毎晩いただいている(いつまで食える?)。

 そして、街に出るごとに、若い(私からすれば40代以前の)女子の、暖かい日にはやや露出気味になるフトモモに、視線は流れてゆく…。
 にもかかわらず、人生で恋愛体験も性体験も一切ない‥‥のだが、これは自己否定的であるとともに肯定的にも、よかったと思っている。

 少なくとも、恋愛・性・結婚というレヴェルで異性を不幸にすることはしていない、ことになる。
 子どもを育てる‘甲斐性’もない者がセックスをするなど、とんでもないのだ。

 ― お〜っと、ここでまた「ペインボディ」が鎌首をもたげてきた‥‥のか、しかしこれはまっとうな認識でもある。
 これの欠如で、どれだけの悲劇が世に起こっていることか!

 ‥‥‥しんどくなってきたので、この辺で。なんかいいこと、ありますように m(_ _;)m。 

また易を‥‥頼ってます~~;。

 もうシンドいのなんの、夏以降の暮らしをどうしていこうか、というところで、易に聞いてばかりいる。
 同じトピックで重ねて聞かないのがルールなので、違う視点から問いを立てている。

 「生きていくこと」に関しては、前に書いたとおり、「風山漸」から之卦「風火家人」だった。
 「漸」は、少しずつ動き出す象意だが、まだほとんど何も動き出していない。

 端的に、「経済状態を好転させる」で聞くと ―「天風姤」の第五爻が変爻で、之卦は「火風鼎」だった。
 「姤」の卦辞は、「不貞の女が近づいてくるので、結婚は危険」云々なのだが、「天風姤」の五爻の爻辞は異色で、いろいろなところで取り上げられている。

 「杞(き=カワヤナギ説が一般)を以て瓜を包む。章を含む。天より隕(お)つること有り」が、爻辞。
 朝日文庫・本田注では「天より隕つるあり、天の軌道から外れることから、忽然と意想外のことが起こる意味になる。占ってこの爻を得た人、隠忍していれば、思わぬ福がやって来ることもあろう。」

 えぇ〜っ??
 英語のサイト、こちらの爻辞の解釈は、「Once the melon is mature, it will fall down to the ground, i.e. position 1(瓜が熟した時に、地上に落ちてくるだろう、言い換えると、初爻の位置に落ち着くだろう(?)」とある(のか?)。

 さらに「… like a person righteously and moderately cultivating himself and biding his time; he will be rewarded once his day comes. Medlar is a kind of nutrient which can prolong life(… 正しく中庸を得て自身を深め、時を待つ人のように、彼は自身の時が来れば報われるだろう。杞は、生を養う滋養の一種である)」とか。

 ちなみに、之卦の「火風鼎」は、吉。

 う〜ん、ガマンしてがんばっていればいいことありそうなのですがねえ。
 と! 言っていたら、仕事先の夏の仕事が4割カット!!

 詳しいことは書けませんが、通常こういう非正規の仕事は、私のような職種であってもなくても、従業者に日程を問い合わせ、それに従業者(被雇用者)が答える。その時点で被雇用者はその日程で自身を拘束し、そこに別の仕事は入れないのが社会常識。他の仕事先があっても、それ以後は、「あ、ここは埋まってます」で、いくら時給がよくても入れないのがルール。

 ところが、依頼があって、こちらがOKした仕事量の4割を、決定通知で「仕事ありません」でカットされました (T_T)。

 で! その仕事先との今後の関係を占うと ―「雷天大壮」の第四爻が変爻で、之卦は「地天泰」。

 リンクしたページの爻辞解釈は、「障害が取り払われ、道が自然に開ける時ですから、初心を貫き通すべきです。仕事に打ち込みましょう。/◎大変良い時です」

 爻辞そのものは、「貞(ただ)しければ吉にして悔(くい)亡ぶ。藩(まがき)決(ひら)けて羸(くる)しまず」
 本田氏の注は、「その正しさを固守するならば、結果は吉になり、懸念された悔いも未然に消滅するであろう。」

 え〜っ??? やっぱりここで大丈夫、ということなのか?
 う〜ん‥‥‥ほんとにわからんことだらけだけれど、いったんは安心すると同時に、いろいろと考えさせられます。

 易を立てた記事を、「愚痴」カテゴリーに入れるのは、『易経』に対していささか失礼でもあるような気がするけれども、よく引かれるように、「繋辞下伝」に「易を作る者は其れ憂患有るか」とある。
 もちろん『易経』の起源の「憂患」と、私ごとき小人の個人的「憂患」をいっしょにするのは不貞も甚だしいが、そこは、君子と小人が同居するこの宇宙のありようを述べる『易経』の容れるところではないか、などと‥‥。

 ※あまりに個人的なことを書きすぎたので、この記事は消すかも‥‥。
 ※若干、文言訂正。「五爻変」と書いた場合、「第五爻が変爻」という意味なのか、「五つの爻が変爻」という意味なのか、曖昧さが生じるので修正(8.12)。
 ※またちょっと変更しました(8.20)。

「師の坎に之く」の意味?−続

 先週は、ほぼ1週間、○痢に悩まされた。
 自分としては、人生でこんなにストレスが連続したことはなく、そのせいと思うのが妥当だが、もうひとつ、おサイフの超-困窮化ゆえ、ひたすら安い酒を買うようになり、買ってから気づくと「合成清酒」というものだった、ということがある。

 合成清酒は‥‥顕著にマズい~~。ネット上には合成清酒を飲んで○痢をしたという情報は見当たらないが、飲むのをやめて下痢が止まったことを考えると、私の体の場合は関連があったようだ。
 合成清酒は、とにかくマズいので、量を摂り過ぎる恐れが減るのはメリットかも、と思ったが、身体のほうからはNGが出た。

 しようがないので、700ml 700円の安価スコッチを1本、西友で。
 合成清酒は、半分捨てて、残りを味噌汁に入れたり料理用で使おうと思う。もうお金ないのにまた損したぁ〜~~。

 さて、本題。
 「安らぎ」を求めると、「地水師」→「坎為水」の卦が出て大嘆息、その意味を考えてみたのだったが…。

 二度寝からの起き抜けに不安で心臓ドキドキなのがどうしようもなかったのだが、週末、徹底的に活元運動をした。
 そうして寝たら、土・日は、二度寝後もドキドキせずに目覚めた! これにはちょっとびっくりした。

 が、月曜以降、自分の経済状態が再認識されたからかもしれないが、またドキドキして起きる。
 その時の二度寝の夢のシチュエーションはリアルに思い出せるものではないのだが‥‥占いをする直前のような場面で心臓ドキドキになって目が覚めた、というような記憶がある。
 次にどういう場面になるか、必然的に不安が起きる場面でドキドキで目覚める。

 まさに之卦が「坎為水」、そのもの。
 坎卦は、上卦も下卦も「☵」で、「この卦は水☵に水☵である。水が流れて来てはまた次ぎ次ぎに流れて来る」(象伝の本田訳注)という。
 象伝は、水が流れて来てはまた流れて来ることを、君子が徳行を重ねることにたとえるが、私への占言としては、「いったん改善されてもまた元の黙阿弥」というふうに読めてくる。

 マクゴニガル説では、ストレスは身体に悪くないと言い、オキシトシンの分泌が増えるそうだ。
 もう脳内から心臓、大腸・小腸とオキシトシン・フラッシュの連続で、オキシトシン大洪水に浸してくれればそれはそれでいいけれど、やはりちょっとこのままだと身体に来そうである。

 いつになったら、おサイフ状況も神経も、少しばかり安らげるんだろう‥‥。

[追伸]
 先日のネコ殿のご来訪が何を意味するのか、いまだに不明なるも、3年前の記事に、ちょうど‘財運線’のハナシの末尾に、当時放映していたアニメのキャラ‘にゃんこ先生’(ネコではなく、ネコの姿をとる妖怪)をあげて、「こういうお方、来てくれまへんかね〜」なんぞと書いておったのでした^^!

[追伸]−2(2014.6.27)
 八卦、数値文字参照でHTML表示できるんですねえ^^! 知らなかったぁ〜(汗;;)。
 さすがディジタルの元祖‥‥ってわけじゃないか^^;。取り急ぎ打ち直しておきました。
 おっと、こんなことしてる余裕あったのかな〜;;;。

「師の坎に之く」の意味? ‥‥

 前記事で、‘安らぎ…’を占ったら「師の坎に之く」が出た、と書いた。

 変爻の爻辞の本田氏訳注では、「一人のしっかりした人間に任せるようにせよ」とあった。
 「一人のしっかりした人間」を、野口整体の「活元運動」(不十分な記述ながら、Wikipediaに「活元運動」、できてます)と捉えて、ゆうべは帰宅後と深夜、就寝前に時間をたっぷりとって活元運動をしてみた。

 瞑目したまま体が動くに任せ、動きが止まるとずっとそのままにしていたい気持ちにしたがって横になっていた。
 不安感はほぼ消滅し、たっぷりと呼吸し、ガチンガチンになったうしろ肩の痛みもそうとう和らいだ。

 しかし、やはりひと晩寝てみると、二度寝以降の目覚めの際には、見る夢に従って不安感で心臓ドキドキで覚める。
 活元運動時の深い安らぎは、浅い睡眠時には消えてしまう。

 これは、どういうことだろうか、と、ちょっと考えてみた。

 Th.ゴラス『なまけ者のさとり方』では、人は本来「スペース」状態(宇宙に融け込みきった、個的自我に執着しない平安な状態?)になれるのだが、ヴァイブレーションが粗雑化すると、身体を持った存在になり、さらに粗雑化することが、さまざまな苦痛・苦労を味わうことだ、というふうに説く。

 この「スペース」状態は、「さとり」の究極であろうし、仏教の言説でもこのように身体を持った存在に輪廻しないことが、輪廻からの解脱だ、と説く。

 したがってそう簡単に体験できるものではないはずだが、活元運動のもたらす安らぎは、私などでも得られる「自分の身心の最も深い根っこへのグラウンディング」と言えるのではないか、と思う。

 では、いったんそのようになった意識が、二度寝の夢の中では、なぜまた(私という)個体の条件に由来する不安を感じるのだろうか?
 その辺も、ゴラスの『なまけ者のさとり方』にヒントを探してみると‥‥
 「スペースの人達は、他の存在のすべてを包みこんでいるのですが、誰かが収縮し始めると、その人は収縮の度合いがひどくなるにつれ、かたまりとなり、スペース状態の人達から追われているように思われます。追われているように感じたり、強制されているように感じるのは、すべて収縮してしまった人の重さのせいなのです。スペース状態の人には、誰かに何かを押しつけたり、強制したりする気はまったくありません。」(地湧社初版、55頁)
 長い引用だが、こんなふうにある。

 活元運動が進んで得られた安らぎには、自分のいちばん深い部分に落ち着いている感覚がある。
 それに対し ― 夢の内容や感覚を思い出すのは困難だが ― 二度寝の夢の中で、ある「安らぎ」、「落ち着き」のようなイメージが現われても、それは真の「スペース」のそれよりずっと相対的な、ゴラスのことばを借りれば、「収縮した形の安らぎ」なので、夢の中でも意識されている現実の経済不安と相対すると、あっけなく消し飛んでしまう、ということなのかと思う ― まったくうまく言えないけれど。

 このところ、夢の中で見る「癒し」や「治療」は、しばしば「お金を出して得られる癒し」のような形で現われるような気がする。
 ということは、「お金がない」状況では「手に入れられないもの」という答えがもう出ているわけで、たちまち心臓ドキドキで目覚める、ということになるのだ。
 この場合、「お金がない者は安らぎを得られない」と、‘追われている’ように感じる。

 もし二度寝の夢の中で「活元運動」ができるようにでもなれば、もっと深い自己の安らぎに至れるかもしれない、と思いつつ、夢の中では現実以上に浅い(=ゴラスふうに言えば「収縮した」)思考しかできないことも事実なのである。
 そしてそれゆえ、今のところ「師の坎に之く」なのかもしれない。はてさて、しんどい…。

また易を‥‥今度は?

 易を立てたり‘お助け本’を繙いたり、いろいろやってみても、このところの心理的、というより、身心的ストレスは、私としてはもう限界を超えている。
 面白いことだが(面白がっている場合ではない! )、一度寝のあと目覚めた時には脈拍はそう上がっていないのに、二度寝して目覚める時、正確には二度寝以降の目覚めの際、心臓バクバクなのである。
 二度寝以降の睡眠は、意識が部分的に覚醒しており、自分の状態=生活窮迫をゴマかせないからだと思う。

 野口晴哉の整体では、野口先生自身はとくに厳しく制していなかったようだが、二度寝は頭部を弛緩させるということでよくないこととする。
 渡辺昇一氏が訳していたアメリカの自己啓発本も、二度寝はするな、と言っていた記憶があり、いわゆる‘人生をムダにしない’人たちは二度寝を嫌うようだ。

 私は二度寝せずにはいられない、言い換えると人生をムダにしたいタイプの人間で、二度寝の夢の中で多くを過ごしてきた。
 ちなみに、野口整体に関心を持つ知識人は、よくヨーロッパ文化を‘二度寝の文化’だと言う。

 今回の激-不安続きは、「二度寝はやめろ」というメッセージとも取れる。が、正直シンドい。
 どうしても起きる必要のある時刻まで二度寝に‘逃げて’いたい。
 そうなると毎日心臓バクバク。いくら「ストレスは体に悪くない」というケリー・マクゴニガル説を信奉してみても、こう続くと悪影響も出そうだし、何より、悲鳴を上げたくなるほどシンドい。

 あまり頻繁に、とくに近接する問いで易を立てることはいいことではなさそうな気がするが、ガマンできず、「今、身心の安らぎを得るには?」で立ててみた。すると‥‥
地水師、五爻変

 「師(地水師)」を得た。
 第五爻が変爻(今回は○で示した)、これだと、「坎(坎為水)」に之(ゆ)くことになり、「坎」は易六十四卦中でも‘最凶’の卦のひとつらしい! (◎o◎;)

 本卦の「師」も、安らぎとは正反対の、軍事・戦闘を表わすようなので、これだと、死ねと言われてるみたいである~~

 五爻が変爻なので、爻辞を見ると、
 「田(かり)して禽(えもの)あり。執言に利あり。咎(とが)なし。長子師(いくさ)を帥(ひき)ゆ。弟子尸(かばね)を輿(にな)ふ。貞なるも凶。」
 「帥ゆ」は、ヤ行上二段活用の終止形だが、本来この動詞はワ行上一段活用のはずで、終止形は「帥(ひき)ゐる」なのだが、漢文では多くこのような活用の変則が行なわれる‥‥アレ、仕事が出ちゃった^^;。

 本田 済氏訳注は、
 「相手にしかけられて、やむを得ず戦う。こうした戦いは必ず勝つ。‥‥占断も咎なしである。‥‥占ってこの爻を得た場合、こちらの言いぶんを通して敵を討つのがよい。えものがあり、咎はない。ただし、一人のしっかりした人間に任せるようにせよ。小人物をさらに参与させると失敗する。」

 うへぇ〜っ。必ずしも悪い占言ではないけれど、安らぎとは関係を見出せません~~;。
 「一人のしっかりした人間に任せるようにせよ」というのは、しっかりしたひとつの方法(たとえば野口整体)に専念し、スピリチュアルだシンクロニシティだ、とあちこちに‘お助け’を求めてはいかん、ということ?

 「坎に之く」というのは、しかしけっきょくいろいろなところに‘お助け’を求めて、坎=陥没する、という予言?? ‥‥だとすると、これまた「私の現状」そのまんま、である~~。


 ‥‥いっや、ふっはぁ、もう‥‥だから易を頻用するのはよくない。

 もうブッ倒れそうなのだが、かつて高時給職を失う噂を聞いた時の「ゾゾォ〜ッ」として目覚める感じはなく、そして実際にその職の打ち切りを告げられた時、しばらく消えていた吐き気や、足指がつったりする症状が若干起きたのだったが、今回は意外にそういう症状は出ない。
 出ている余裕すらない、ということなのだろうが、やはりいろいろ経験して、身体自体が変わってきている、という感じはする。

 とはいえ、ほんとに二六時中「助けてくれ〜ッ」と叫びたい気持ちである。
 それにしても、あの、ネコ殿の来訪は何だったのだろう?
 「シンクロニシティ」というのは、合理的因果関係のない2つ(以上)の事象が、経験する者にとっては意味を持って立ち現われることを言うが、その「2つめ」が、ないのだ‥‥~~。

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