最近読んだ本

 今度は、読んだ本。少ない(大笑)。

読んだ本

 右は、もう夏あたりに読んだ本、真木悠介『気流の鳴る音』(ちくま文庫)。
 現在は「ちくま学芸文庫」所収で、検索では Amazonサイトでもこちらだけが出るのだが、「ちくま文庫」版も、商品ページは、隠れて存在する。
 学芸文庫版は、改訂されてはおらず、単に値上げされているだけのようだ。

 真木悠介は、東大教養学部で教えていた見田宗介氏のペンネームで、純学術的な社会学の論文は見田名義で、コミューン論など、ちょっと“飛んだ”方向で書く時には真木名義で書いていた…らしい。

 人類学者カルロス・カスタネダによる、ネイティヴ・アメリカンの呪術師・ドン・フアンの教えの紹介は、一時期かなりな読者を持ったと思う(私は未読)が、本書は、このカスタネダの追った道をたよりにしつつ、コミューン/共同体のあり方を論じる。

 真木によれば、ドン・フアンの教えから、マルクスを読み直すこともできる。
「『資本論』の物神性論の箇所でマルクスが、われわれをロビンソン・クルーソーの島や種々の共同体、あるいは自由人たちのコミューンへといざなうのは、ドン・ファンがカスタネダを呪術師の世界へといざなうこととおなじに、「世界を止める」ことへの媒介としての異世界への旅である。」(85頁)

 共同体のあり方のカギは、
「支配の欲求が他者をもたえず自己へと同化することを欲するのと反対に、出会いの欲求は自己をもたえず他者へと異化することを欲する。支配の欲求は同化的であり、出会いの欲求は異化的である。」(201頁、「出会うことと支配すること ― 欲求の解放とは何か ―」。太字部分は、原著では傍点を付している)
という。

 こうした考え方を、「ああ、一時期はやったヤマギシズム的共同体論の模索だろ(← 著者に、言及あり)。役にも立たない」と切り捨てるのは簡単だし、実際、有効であるかどうか、それを実践する人びとの側のクオリティの問題なので、じつに困難なことだが、読んでいて、「こういうのが“知の営為”なんだなあ」という実感があった。

 もう1冊は、元文科相官僚・寺脇 研氏の『危ない「道徳教科書」』(宝島社)。
 教材に取り上げられた物語の、個々の問題点はネット上でも知ることができるが、道徳の科目化=必修化に至る、政府の動きのプロセスも含めた概説として、まとまっている。

 ジャケット・カバーにある、「お辞儀と挨拶との順番」。これを「教える」というのは、ナンなのか。
 意味は、ない。意味はないからこそ、意味は明瞭だ。「なんでもお上の言うとおりにしなさい」ということなのだ。

 2冊に共通するトピックは全然ないように見えるけれど、じつは昨今の道徳教育、道徳教科書の問答無用の適用は、真木氏の言い方を借りれば、「他者を自己へ同化して支配する」ことを徹底しようとすることである。

 こんなことをやっている一方で、教員不足で授業が成立しない、という事態が生じたりもしている。
 加えて、大学入試の、超特急&超拙速改革は、いろいろなところから苦情続出。
 まずは英語に関して、採点の平等性確保やアウトソーシングなどに関して疑義噴出だ。

 国語についても、しかり

 上リンク先で紅野氏が指摘するように、まずは問答無用の「導入ありき=やるんだから、文句は言わせん」という前提。

 そして、紅野氏が著書でも指摘していることだが、「実用」的な文章の読解では、「景観保護のガイドラインや駐車場の契約書、生徒会の規約の条文をよく理解して、関連する資料やデータとの整合性やくい違いを見抜けるかどうか、社会的な応用力が試されている」のである。

 つまり、制定されている法令や文書の文言、およびその成立過程にてついては議論の対象とはせず、それに「遵法」する、文書のいうところに「従う」ことができる読解力を涵養するのが目的、というわけだ。
 これは、まさに真木氏のいう「同化による支配」にほかならない。

最近買った本

 本日は‥‥どこもみな台風休業。わたくしめも同じ(もち、収入も休業;;)で、ゆっくり起きて朝昼兼用ブランチ♪
 昨日は、仕事先で、ちょっとものを買おうと思ったら、レジにすごい列で、時間がなくて仕事開始。帰宅時には、遅くまであいているスーパーも閉まっている時間で、手ぶらで帰宅。

 今日、午後2時に、大雨の中 近くのスーパーに行ってみると、閉店。これは仕方ないでしょう。
 ‥‥たっぷりあると思っていたパスタは、残り80gくらいしかなく、菓子パンもほとんどなし。
 たっぷりある食材は、コメ、味噌、たまねぎ、にんじん、卵‥‥それから梅干もおかずになる。
 停電さえしなければ、夕飯はだいじょうぶ、でしょうか。

 さて ―
 今月は、珍しいほど「本」を買った。

10月に買った本。

 もちろん全て古本である。
 仕事で、佐伯啓思の文に触れたことがきっかけで、“保守派”思想家の言説も少しは、ということで、佐伯氏と西部 邁の本を数冊。
 この二人、右派イデオローグとしての、ある種“プロパガンダ本”的雑本 ― 著者や支持者はそう思っていないだろうし、こんなふうに言ったら怒るだろうけれど ― の類いがやったら多く、きちんとした「著書」を探すのにむしろ苦労する。

 横になっているのが、40年以上前の作品ではあるが、西部の代表作とか言われる『ソシオ・エコノミックス』(中央公論社。別の版元から復刊されている)。
 いっぽうで読みやすそうな、『思想史の相貌』(徳間文庫)。

 佐伯氏のほうは、まとまった社会経済思想(と思われ…;;)の著書、『経済成長主義への訣別』(新潮選書)と、『倫理としてのナショナリズム』(中公文庫)。
 右にちょっと顔を出している文庫‥‥氏の“学問論”と思しい、『学問の力』(ちくま文庫)も買った。
 この本を、まず読み始めているが、“学問論”、著者の“知への姿勢”を論じた本 ― 文庫版のジャケットカバーは、あのラファエロの『アテネの学堂』である^^! ― という装いなのだが、半分ほど読み、もうアットウ的な違和感と不快感でツッコミ衝動、抑えがたい一書なのである。

 これまで、ふつう学的「知」とは、日常的な、無意識的に得られる「知ること」ではなく、意識的に捉え返された、もう死語になっているようなドイツ語を用いれば、フュア・ジッヒ für sich(対自的)なものを指すはずであったのだが、佐伯氏の論調は、「もっと日常の、当たり前の生活者の感覚から考えようよ」という、前のフレーズの対義語でいうと、アン・ジッヒ an sich(即自的)なのでいいんじゃない? というようなスタンスが強烈で、そこからいわゆる「戦後リベラル」、「戦後左派」を批判していく、という趣きだ。

 本書の Amazonページには、批判的レビューがひとつあって、じつのところ私はかなりこの人のレビューに同感しているのだが、この人の文章たるや、激甚災害なみに悪文である(コメントに対するリコメも、懇切ではあるが極めて読みづらい)。

 具体的に指摘するなら、「本書でも凡庸だが、ポストモダンに関する定義は、現在から見ると判りやすい説明を与えているのが本書の特徴かもしれない」という末尾の一文、これは最低限、「ポストモダンに関する定義は、現在から見ると判りやすい説明を与えているのが、凡庸ではあるが、本書の特徴かもしれない」くらいにはするべきだろう。
 文頭「凡庸ではあるが…」とやられると、何が凡庸なのか全く不明瞭になる。

 このレビュアー氏、図書館学を専攻する大学教員、であるらしいのも、まさに驚嘆落胆万金丹。

 この本については、読み了ってからまた書こうかと思うので、この辺で。
 「知」に関して、右派の西部氏や佐伯氏は、最近の「知」が専門化しすぎて、真の「知」、「教養」を破壊していることの弊を、口をすっぱくして論じてきたような気配(西部氏は、その死まで)なのだが、私は、たとえばちょっと以前の、民俗学に関する書物に、軽々に端倪しえない、真の、先鋭な「知」を感じたりする。

 具体例を挙げると、谷川健一の『魔の系譜』(紀伊国屋書店 → 講談社学術文庫。こちらが、よい紹介)や、筑摩現代日本思想大系『民俗の思想』の、益田勝実による解説論文、というようなものだ ― 前者は拾い読みだし、後者は読んでから時間が経つので、記憶が薄いけれど。

 で ― 財政学関係の入門書2冊が、ちょっと期待はずれだった、井手英策氏の、『経済の時代の終焉』(岩波書店)も、買ってしまった。
 これまでの自由主義経済への批判と、路線転換を提案する点では、保守派の佐伯氏の『経済成長主義への訣別』などとは、本来絡み合う部分があるはずなのだが、井手氏は政治的には、民進党大会で大演説をブッたようにリベラルであり、有意な対話はなされていないようなのだ。

 ― この辺のブ厚い本は、なかなか読み始めそうにない;;。
 とりあえず、あるところで紹介されていて興味を持った、岡田暁生『クラシック音楽とは何か』(小学館)は、軽く読めそうだ。これはディスクユニオン店頭で買った。タイムセールで、1割引き^^。

ここ1〜2ヶ月の間に読み終わった本。

 ここ1〜2ヶ月の間に読んだ本‥‥もあるが、正確には「ここ1〜2ヶ月の間に読み終わった本、である。

ここ1〜2ヶ月の間に読み終わった本。

 いちばん長くかかっていたのが、E.カッシーラー Ernst Cassirer『人間』(宮城音弥訳、岩波文庫)。
 大学・学部の4年のゼミの教材になったものなので、当時1981年だったかと思うので、37年かかって、ようやくいちおう全部読んだことになる。
 カントやフッサールのような、難解な概念の迷路のような記述ではないのだが、各章、何が書いてあったかというと、とても「まとめ」など浮かばない。

 最初、現代仮名遣いではあるが、漢字はすべて正字体(一般に「旧字体」というが、やはり「正字体」といきたい…)で印刷されていた、「岩波現代叢書」の一冊であり、その部分は読みづらかった。
 現代叢書版を、学卒後もチビリチビリと、ほんとうにチビリチビリと読み進める中、岩波文庫に入ったことを知り、買い換え、現代叢書版で読み終わったあとを文庫で読んで、転室後も持って上がり、先月くらいだろうか、読み終わった。
 そういう点でも、最初のほうの記述は忘れている。

 この本は、著者が大著『シンボル形式の哲学 Philosophie der Symbolischen Formen』(これも岩波文庫で全巻訳刊)を完成したあと、ユダヤ人であったのでアメリカに亡命し、大著の内容を、再度吟味して英語で書き直した、というふうに言われる、しかしともかく「歴史的名著」であることは間違いない。

 第3章冒頭に、
 「人間を animal symbolicum(シンボルを操る動物)だとする、我々の、人間についての定義によって、我々は後の研究に対する最初の出発点に達した。しかし、ここで、この定義を、さらに正確にするために、是非ともこれを若干、発展させなければならないことになる。」(文庫版68頁)
 とあって、この animal symbolicum シンボルを操る動物 というのが、カッシーラー哲学のひとつのスーパー・キーワードになり、かつ今日の人間観のひとつの基礎となった。

 この「シンボル Symbol」は、一般に訳される「象徴」の含意するものだけでなく、広範囲の「記号」をも示す。
 その意味で言語も Symbolであるし、数学記号もマシン語も Symbolである。「記号論理学」は、Symbolic Logicの訳であるし…。
 が、カッシーラーはあくまでも「哲学者」であるので、個々の記号を扱う諸学科について論評を加えるだけというのではなく、諸学科の成果を検証しつつ、人間の本質を考える、というわけである。

 第6章に言う、
 「シンボル形式の哲学の出発点となる前提は、人間の本性または「本質」に関するなんらかの定義があるならば、この定義は、機能的なものであって実体的なものではないとしてのみ解し得るということである。」(文庫151頁)
の一文も、カッシーラーの言明の中、20世紀精神史における、記念碑的なことばだろうか。

 こういう考え方は、物質を、「実体」ではなく、「粒子」と「波動」の補完的機能性のうちに捉えざるをえなくなった物理学のほうでは、むしろ常識であるはずだし、諸現象を「因縁による生起」と捉える仏教思想からも肯えるはずであるが、「実体」観の解体というのは、精神・身体・国家・法律・民族の諸レヴェルで、とくに私たちの日常においては、けっこう困難である。

 ま、しかしゼミのテキスト、いちおう読みましたよ^^。このあと『シンボル形式の哲学』(岩波文庫で全4巻)に行くかどうか…。
 超-ヤヤコシい哲学書では、これまた学部時代から継続の、カント『純粋理性批判』(高峯一愚訳)や、フッサール『イデーン』(池上鎌三訳、岩波文庫)などが本棚に残っていて、死ぬまでに読むかどうか、覚束ないけれど、読んではおきたい…。

 写真右の、函入・A5判専門書は、会田雄次著『ルネサンスの美術と社会』(創元社、昭和32年)。
 以前に買って読もうと思ったものの、社会経済史から説きだす形式に、面白みを感じられず、捨てたのだったが、転室前くらいにネットで買いなおし、転室後に読み始めて、まあまあ読み通した。
 これも数ヶ月、いや2年くらいかかったかもしれず、内容は具体的には覚えていない。

 この本は、15〜16世紀の、毛織物工業を素地にしたフィレンツェなどルネサンス都市の「市民」の精神史から、ボッティチェルリ、ミケランジェロ、ラファエロ、それに、あのベルリオーズがオペラにした、ベンヴェヌート・チェルリーニを各章に描き出し、最後に、「ブルクハルトとニイチェ」の章を加えたもの。

 背景となる世界史の知識がまるでないところで読んだこともあるが、「ふ〜ん、そうなのか」という部分と、あとにも触れるが、会田氏は反-左翼的なところがあって、羽仁五郎説などに敏感に論駁したりするところ、イデオロギー臭を感じ、では、当時の美術評価の基準などをイタリアの原語(イタリア語、ラテン語)資料を博引して論じるというわけでもなく ― これは、当時の草分け的西洋史学の環境では、無理だったろう ― 著者の批評的視点で描くというものになっていて、その点はむしろ面白かった。

 ボッティチェルリは、サヴォナローラの思想に「帰依」し、そのことが彼の創作力を平凡なものとし、最終的には奪い去った、というような説は、現在ではどのように評価されているのだろうか。
 会田氏のこの著作は、現在では美術史家に触れられることは、もはやほぼないものと化しているような気配だ。

 むしろ、会田氏は、このあと、名著(と言われるが未読)『アーロン収容所』(中公新書/中公文庫)をものして知られ、そのあとは保守=反進歩派の論客として、あとに触れるような、救いようのない駄本を量産した。今健在であれば、論客として政権や日本会議などに与したに違いない、と思しい人だ。
 単著で、まさに専門分野での最大の労作が、もはや顧みられることがないのは、なんとも、といったらいいか…。

 さて、あと3冊は、片山杜秀氏の著作。
 『歴史という教養』(河出新書)は、氏一流の語り口で「歴史とは何か」を論じたもの、というようなことになろうが、荻生徂徠あたりを出してくるので、具体性がないことはないけれど、とにかく「歴史観とは何か」みたいなことを、延々口述したその筆記、のようなもので、私には「うるところ、何もなし」に近かった(ネコパパ先生、すみませ〜ん;;)。
 ある種、嫉妬かもしれないが、これだけのことで一書を成して上梓できたのは、著者のネームヴァリューで、というのではないか、という気がする。

 次。『線量計と機関銃』(アルテスパブリッシング、片山杜秀の本5、ラジオ・カタヤマ【震災篇】)。
 2011年3月、震災+原発事故以降のラジオ放送の「起こし」であり、これはこの時期自体から来る容赦のない、ジャーナルでドキュメンタリーな緊迫感を伴なって、著者の博識が「上滑り」しない。
 それでも、設定した番組のトピックとの関わりが、やはりアンバランスになる感もあり、せっかくの重要な指摘も、読後、霧消しがちに覚えた。

 3冊め。『平成精神史−天皇・災害・ナショナリズム』(幻冬舎新書、2018年11月)。
 と〜もかく、これはもう大興奮の一書であった。「平成」を掲げつつ「昭和」を総覧し、語る。読書人必読の超-名著である。
 戦前の、高橋是清財政については、例の(!)井手英策氏が専門なのだが、氏の『財政赤字の淵源』(有斐閣)を読んでも意外によくわからないのに対し、高橋是清に加えて山本達雄を描くことで、むしろずっとわかりやすく感じた。著者の博識の面目躍如といえる。
 が、個々の情報出典は、注など一切ないので、検証は必要かもしれない。

 日本会議設立の立役者ともいえる黛 敏郎のことなど、音楽評論家でもある片山氏にして初めて書けること、かもしれない。
 が、他方で、この種の「上部構造」(死語だけど;;)にあまりにこだわるところには、罠もあるような ― これは読者の視点として ― 気もした。

 話が変わる‥‥ちょっと選挙ネタみたいになる‥‥が、このところ安倍首相が機会があれば言うことは、「あの民主党政権の暗黒時代」である。

 「平成の暗黒時代」といえば、何を措いても、1998(平成10)年から2011(平成23)年まで、13年も続いた自殺者年間3万人超の時代という以外、私には何ものも思い浮かばない典拠資料)。

日本の自殺者
グラフは、こちらから。

 民主党政権時代も3万人超は続くが、政権交代後、明らかに減り始める。
 ここに至る政権は、小渕恵三・森 喜朗・小泉純一郎・安倍晋三・福田康夫・麻生太郎の各内閣であった。
 いったいどっちが「暗黒時代」だったのか、まあ考えない有権者ばっかりなんだろうけれど

 こういうことは、片山本には全く出てこない。いや、そのことを難じるつもりは全くない。片山さんにそんなことを求めてもしようがない。
 だが、「平成精神史」を考える場合、この視点 ― 湯浅 誠サイド、とでもいったらよいか ― も絶対抜かせない、と思う。

 上にちょっと書いた、右派イデオローグとしての会田雄次。

会田雄次の本

 『アーロン収容所』は、氏の視点の最も鋭い部分の活きた本であるようなので、ぜひ読みたい。
 文庫で写っている『新選 日本人の忘れもの』(PHP文庫)は、ナンでこんなものを持っているのかというと、以前バイトをしていた塾で、中学生向けのワークに、この本の一節が問題文として使われていて、「アッホな文章だな〜」と驚倒したので、である。

 全篇は読んでいないが、ところどころ拾い読みをすると(寄せ集め本だから、それでもよい)、まだ“戦後”の、いわゆるサヨク的感覚が学生や市民を、氏の見方では「毒していた」有様が、なんとも呪わしく描かれている。会田氏が今生きていたら、「日本人も健全さを取り戻したものだ♪」と静かに喜んだに相違ない。

 もちろん氏の見解に、なるほどと思う部分もある。が、総動員体制の戦争と、敗戦を経た日本人の中に芽生えるドス黒い反国家主義や共産主義的搾取観を、この歴史学者は全く「活きたもの」として捉えられていないばかりか、一切、捉えようとはしない。
‥‥またこれは別に記事にしましょうか。

 上の「読書メーター」のサイトには、好意的なレビューが2点投じられているけれど、まさに今の世は氏のような見方が「ふつう」になったのだなぁ、と実感する。やれやれ。

片山杜秀本、3冊…。

 よく拝見するブログのコメント欄で話題になっていた 片山杜秀(かたやま・もりひで)氏の本。

片山杜秀本

 『平成精神史』(幻冬舎新書、2018年11月)、『歴史という教養』(河出新書、2019年1月)、『線量計と機関銃』(「ラジオ・カタヤマ【震災篇】」、片山杜秀の本5、アルテスパブリッシング、2012年7月)の3冊。
 新書版は、新刊を、『線量計と機関銃』だけは、ちょいとお高いので、Amazon中古で買った。

 出たばかりの本で、かついちばんラクに読めそうだった『歴史という教養』は、駆け足でもう読んでしまいましタ;;。
 で、好感だった方には申しわけないのだが、いささかつまらなかった

 該博な知識を、新書の紙数制限ゆえ、かえって控えめに開陳し、慎重で、かつ「生」と「歴史」に慎ましくも深い愛を‥‥という「生き方としての温故知新」…みたいな感じだった。
 氏の「温故知新」は、実のところは身を削るようなものと思しいが、氏一流の“講談調”は、「温」を「微温」の温にしてしまう。

 こ こに書いたことだが、歴史を見る「眼」=史観について、最近考えさせられたのは、「出来事は、「説明」や「想起」によって語られてはならず、起こったそのままが「復元」されなくてはならない」という、『ショアー』の監督、クロード・ランズマンの視点。
 そのランズマンが、頑強なイスラエル絶対支持者だった、ということ ― この「関係」なのだった。

 こんなことを考えたあとに、片山氏の「教養としての歴史のすすめ」は、「おっしゃること、隅から隅まで宜いますが、それで、どうなんですか?」な気持ちに陥る。
 ‥‥と、ちょっと酷な評から始めたのも、『平成精神史』と『線量計と機関銃』の中身をちょっと見て、これらのほうにアットウ的な期待が持てるからだ。

井手英策氏著書、レビュー投稿。

財政赤字の淵源
 こ こで、いずれ Amazonにレビューを、と書いていた、井手英策氏の『財政赤字の淵源 寛容な社会の条件を考える』(有斐閣、2012年。写真は Amazonから)のレビューを、やっと書いて、Amazon商品ページに投じた。

 最近 Amazonは、レビュー投稿時には、ログインだけではなく、登録メールアドレスにコードを送信してきて、それを入力して認証するようになっている。
 いっぽう、レビューが認可されてアップされると、メールで通知が来る。今回は数分後だったようだ。

 私の買ったもの(ヤフオク! 上のブックオフ、まとめ買いのできる店舗)は帯がなかったが、Amazonの商品写真は、珍しく帯があり(書籍の写真は、帯がないものが一般的)、「増税に共感できる」という文言が印象的だ。
 2つ星で低評価であり、ゴタゴタと書きながら内容のまとめにもなっていない ― あたりまえである、当方、財政(史)なんてぜ〜んぜん門外漢 ― が、言いたいことは書いて、フォローもしたつもりである。

 こんどは、チキ氏の『ブラック校則』、書かなくちゃ。

久しぶりに、本。

 水曜日で“夏期”のお仕事終了〜。終了に向かい、腸の具合最悪‥‥ということは、アタマの緊張からの解放を身体自身が感じて反応しているのかも。
 最後のコマは、約30分のサービス残業でした〜。

 CD漁りのほうは、依然として6月の、アルテミスQのベートーヴェン全集で打ち止めのまま。
 オクを時どき覗くけれど、このごろはそ〜と〜どうしようもない状態だ、と感じてしまう。検索内容によるが、価格と内容から、ゴミ出品の山としかいいようのない光景に出くわすことが多い。
 オクも Amazonも、いいものが出ているときに買ったなぁ、とヘンに悦に入ったり。

 その反動でもないけれど、ひ〜っさしぶりに出版物=「本」を3冊買いました。

本、3冊。

 右から、「最新刊」、荻上チキ、内田 良編『ブラック校則 理不尽な苦しみの現実』(東洋館出版社)、そして佐々木正人編『想起のフィールド』(新曜社、1996年)、左端の文庫は、エルンスト・カッシーラー『国家の神話』(宮田光雄訳、講談社学術文庫、2018年)。

 『ブラック校則』は、読んでしまった。
 こちらに、編者の一人・荻上さんの見解がある。彼の冠番組(TBSラジオ)《荻上チキ Session-22》の特集も先日あり、それを聞いて買ったような感じ。

 何しろ私は、60〜70年代に「生徒」だった人間なので、中学入学と同時に「丸刈り」が強制された。小学4〜5年生時にいちど不登校に陥り、学校恐怖・学校厭悪感はずっと心中に底流していたので、中学入学はイヤ以外の何ものでもなかった。
 中学時も不登校で、5年在籍(教育研究所通所を以て出席と換算して卒業認可)しているうちに丸刈り強制校則がなくなったが、今度は頑なに伸ばさなかった。

 そういう流れの中で育ち、“人権無視”の校則がある状態から、次第に緩和されてゆく流れの中で、しかし自分自身は、校則も全部含めて丸ごと「学校」を拒否するという事態に陥ってしまった(← このようなマイナスの表現をするのは、私自身、そのように評価しているからである)、という次第だ。

 髪を染める/脱色するなどをしていない証明のために「地毛証明書」を提出する、ということが、近年増えているという。下着の色も、教員がチェックした上、校則、というより「内規」違反であれば是正させる。
 こういう事態に、「え? 現代の社会でこんなこと?」と驚く、という表現でしばしば描かれるのだが、私はむしろ、「あ〜、あのころあんな教育しかできなかった教員世代の次の世代なのだから、ほかのやり方なんか見つけられるはずはないよな」と思ってしまった。
 当たり前の「教育効果」が現われているだけ、だとさえ感じる。

 この本のレビューは、いずれ Amazonにでも。

 真ん中の『想起のフィールド』‥‥これは、いちばん最後の論文、高木光太郎「身構えの回復」が、大学入試に使われたことがあり、仕事先で垣間見したことから興味を持ち、オリジナルを入手したいと思ったので買った。
 もうとっくに版元品切で、Amazonでは定価(税抜き2,400円)より高い価格の出ものばかり。オクで、ブックオフが半額で出しているのを見つけて購入。

 執筆者の高木氏(リンクは早稲田塾サイト。仕事先ではありません^^)は、青学の教授で心理学者だ。

 この論文は、フランスの映画監督、クロード・ランズマン(Claude Lanzmann 1925〜2018)の、スピルバーグ(『シンドラーのリスト』)批判や、松本サリン事件における河野氏の、当初の証言の誤謬などを取り上げる。

 まだ通読もしていないし、熟読したとしても乱暴なまとめ・引用にならざるをえないと思うが、高木氏は、私たちがものごとを想起し、確認することを以下のように言う。
 「過去の出来事を想起すること、つまり年代記として、多様な事象間の因果連鎖の時間的展開として描き、説明することは、われわれの日常であり、われわれはこうした年代記的な語りこそ事実を確定するときの標準的かつほとんど唯一の方法であると信じている。」(221〜222頁。太字化は へうたむ)
 そして、このことが河野氏の当初の誤認を生んだ事情でもあり、ランズマンが、「出来事を再構成することを厳しく禁止」(219〜220頁)した所以でもある、と言う。

 高木氏は、ランズマンを引用して、
 「暴力をなにか別のものによって説明することは、「暴力の冷酷きわまるむき出しの姿に衣をまとわせ、美しく装わせようとすること」であり」(220頁)、暴力の真の姿への直視を妨げる、と言う。

 当該論文には、イスラエルとパレスチナの問題への言及は、ない。が、この論文を「垣間見」して私が思ったことは、このランズマンの「方法=姿勢」は、イスラエルの、パレスチナでの行為にも、そのまま、過つことなく当てはめられねばならないはずだ、ということだった。

 《週間読書人ウェブ》上にある、『パタゴニアの野兎 ランズマン回想録』(人文書院)への、早尾貴紀氏の書評によれば、ランズマンは頑固なシオニストであり、また、アルジェリア独立を支援しつつ、「いざ独立したアルジェリアの指導者らがパレスチナ解放闘争の支援を表明するや、ランズマンは激しく憤慨。アルジェリアとの関係は「すべて終わった」」(同ウェブ)。
 「正直、評者として落胆を覚えるほどに、ランズマンはイスラエル国家に対する批判的距離を保つことができず、自らと一体化してしまっている」と早尾氏は言う。

 ネット上には、ランズマンのその当該作『ショアー(ショア)』に対する批判も、あまた見える。
 それにもかかわらず、高木氏の、ランズマンの「提案」に対する評価は、ランズマンにとっていかに皮肉な、あるいは意に染まない立場をも支えるものであっても、いな、それゆえに、きわめて重要だ。

 反対から見れば、「出来事を、出来事のまま、説明しないで復元する」視点を提出したランズマン自身は、自らの民族性に関わった次元においては、「シオニズムという物語」を、一切の起源に置くほかなった、というところに、大げさにいえば、「人間精神の必然としての悲劇」のようなものを、ひしひしと感じさせられる。

 ― で、真打ち登場! でありまするが、共同体と個とのクリティカルな関係を論じた古典、E.カッシーラー(Ernst Cassirer)『国家の神話』。
 これ、この宮田訳は、ずっと創文社の高価な研究書版しか邦訳がなく、原書(英語)のペーパーバックは持っていたのだが、当然、積ン読。

 最近ちょっと終わりのほうをパラパラとめくってみて、そう難解な文章でもないな、とも思いながら、新訳や文庫化など出ていないものか、とググったら、宮田訳が講談社学術文庫に入ってました。
 本文訳文はほぼ創文社版のままのようで、人名表記と書誌情報のみ更新した、と「訳者あとがき」にあるので、帯の「全面改訂を施した決定版」というキャッチは、ちょっと誇大。
 今年の2月の刊行である。この本が、今まで文庫化されていないほうが驚き‥‥だったが、専門家は原書で読んでいるだろう。

 訳者の宮田光雄氏は健在で、90歳を迎えている。この文庫の「学術文庫版訳者あとがき」には、昨今の政治の状況に対する、リベラルとしての警告が明記されている。
 カッシーラーの文庫版は、『人間』、『シンボル形式の哲学』全4巻(すべて岩波文庫)に続いて、3作め=6冊めになる。
※『啓蒙主義の哲学』(ちくま学芸文庫、2巻)も出ていた。4作/8冊め、ということになるようだ。[後記]

 しばらくはやはり積ン読のままになりそうだ。が、学部時代のゼミの教材(もちろん邦訳)で、けっきょく読み通せなかった『人間』は、文庫版に替えて、やっと読み終わりかけている。

 そうそう、この3冊すべて並製本で、しかもうち2冊は古書、さらにその1冊は文庫だけれど、出費は都合4,300円でした。CDならベートーヴェンの交響曲全集が2セットは買える、かな?

最近やっと読み終わった本2冊。

 もう1週間以上前になるが、ず〜っと読んでいた ― ので、初めのほうは忘れているかも;; ― 本を、2冊ほど読み了えた。

読み了わった本。

 1冊は、学部時代に求め、ずっと積ん読だった、プラトンの『ソクラテスの弁明』(「ソークラテースの弁明」、田中美知太郎訳、『ソークラテースの弁明・クリトーン・パイドーン』、新潮文庫収載)。
 “世の青年たちの思想を壊乱した”廉(かど)で捕縛され、死刑判決(!)を受けることになる裁判における、ソクラテスの自己弁明を記した書、である。

 大学時代から積ん読のままだったものを、数ヶ月前から『ソクラテスの弁明』だけでも読んでしまおうと思って読み出したのだが、文字を追うのが、めんどくさかった〜。
 で、内容はシンプル過ぎるように感じられるのみで、示唆を受ける部分は、なかった(あちゃー)。

 読後感は、2,500年前の、デモクラシーと思弁との故郷のごときギリシャでも、やっぱりポピュリズムが社会を動かしたのだ、ということ、だけ。みごとだ。
 2,500年といえば、1万年の1/4である。このていどの短時日では、ヒトは考え方も生き方も変えられぬのだ、という確固たる事実。よ〜くわかりやした。

 もう1冊は、ちょっと前に、民主党大会で“大演説”をぶった、慶応大教授で財政学者の井手英策氏の『日本財政 転換の指針』(岩波新書、2013年、写真左)を読み、予想どおり(!)いまいち飲み込みづらく、ヤフオク上のブックオフのまとめ買いでいっしょに買っていた、同氏『財政赤字の淵源』(有斐閣、2012年)を読んだ。

 副題は「寛容な社会の条件を考える」であり、昨今の社会に一般化しつつある、生活保護受給者などへの攻撃的視線に代表される「不寛容」と、財政 ― は当然、税制のあり方に直結している ― との関係を模索したもの、ということになるのか。

 最終章が、今後の財政&税制への提言で、ここと、財政史研究(これが井手氏の評価されたこれまでの主業績分野)から日本財政を論じ、「土建国家」と定義し、その行き詰まりを指摘した第五章までとの間に、なかなかうまく繋ぐことができない溝を感じる‥‥と感じていたら、版元サイトにある著者自身のコメントで、著者自身もそのことを自覚している旨、告白している。
 加えて、予期せぬ大怪我からの回復時の執筆だったということも知られた。たしかにこれはたいへんだったろう。

 このコメントも、岩波新書の「あとがき」と同様、さすがに民主党大会でのアジぶりほどではないけれど、思い入れたっぷりで、こういった熱と説得力が、論著の本文からももっと感じられないものか、と、この人にはいつも思わせられる。

 Amazonにはまだレビューがないけれど(いずれ入れてみるつもりなので、ここでは詳論しない)、ネット上にいくつか見える読後感は、最後の提言にいささか「そうなるといいね」という感想を示すものばかり。
 井手氏は、このあとにものした『経済の時代の終焉』(岩波書店、シリーズ 現代経済の展望、2015年)が、大仏次郎論壇賞というものを受賞しているのだが、2冊の読後感から、『経済の…』を手に取る気持ちは、失せている。

本の廃棄・放出。

 吉田秀和の新書版随筆集『文学のとき』(白水社ブックス、1994年)を読んでいたら、中原中也に連れられて小林秀雄宅を訪れた時の印象を書いている。

 部屋には窓があって、その下の壁沿いに、二、三十冊の仮綴じのフランス語の本がひとならび、ならべてあった。本の少ないのが、ひどく私の気にいった。
 私は、本の少ない家に育ったためだろうか、むやみと本のたくさんある部屋とか住まいには、肉体的に嫌悪を覚える。贅沢とまではゆかなくとも、ゆったり場所をとってあったら、どうか知らない。しかし、日本の家屋の場合、たいていは、部屋中の壁が本でいっぱいだったり、その辺にごたごたと積み重ねてある図を見かける。そんな時、私には何だか、その部屋の主が、精神的にひどく貧寒とした人物に思えてくる。「ルンペン知識人」、もしこんな言葉があるなら、そんな感じである。金のない知識人が嫌いなのではない。質的な貧しさに鈍感で、そんなに知識ばかり求めて、どうするんだろう? と思ってしまうのである。
(120頁)

 吉田氏の文章としては、ちょっとイヤ〜な感じを得る文章だった。ふむ、やっぱり「金のない知識人」を嫌っておるじゃないか。収入がなくて部屋の狭い研究者なんか、嫌いなんだろうな。
 が ― 住む場所についての感覚という次元でなら、自分もこのようにも感じる。

 自分の、狭い1Kの借り部屋が、まさに「部屋中の壁が本でいっぱい」になっていることに、圧迫感だけを感じるようになっている。‥‥さすがに、現状、床に平積みの本はない‥‥書類や古新聞ならぬ古市報は畳の上だけれど。

 そこで、書籍の処分・廃棄計画‥‥まず放出すべきは、10巻本(縮刷)の『日本国語大辞典』(小学館、旧版。通称「にっこく」)。いちいちこれを披見することは、もうなかろう。それより、こまめに『広辞苑』や『大辞林』を引くほうがいい。

日国

 これは、オクに出して(1,000円くらい? もち、送料は落札者さん負担;; )落札されたとして、発送時の梱包がちょっとたいへんだ。
 おっと、写真でちょっと見えておりますが、『日国』の上の階は、ぬいぐるみさんたちの部屋になっております;; 。

 学生時代から、ちょっとずつ、気の向いた時だけ読んでいる哲学書は、けっこうあるのだが、これらは読み続けたい。
 それに対して、「こんなのも‥‥」と、“見栄”もあって買った、河出・世界の大思想『資本論』上製函入全巻;;; ‥‥数年前、オクで2,000円で落とした。箱、本ともにビニールカバーの付いた美本である。

資本論

 これは、放棄。
 これ、第1巻の最初の60頁ほど読んでいて、商品交換の具体的意味づけを行なってゆく論は、全く抽象的なカント:『純粋理性批判』などより、ず〜っと具体性があってわかりやすいのだが、大冊を読む気力も時間も、そして目的もある意味、ない。

 仕事(といえるものかどうかはともかく…)がら、日本古典の注釈書は、文庫、上製(岩波や小学館の「大系」や「全集」)ともに、できるだけ置いておきたい。
 が、底本が異本であるから両方置いておく(例:『保元物語』、『平治物語』における、岩波の新旧大系)、などというのは極力なくし、片方は廃棄する。

 CDは、ほぼ「聴くべきものは揃った」状態なので、今後は、「増やしすぎない」ことに注力するとして、本は、手放し手放し!!!

 といって、読むのならやっぱり「名著」を読むようにしたほうがいい。

 このところ読んだ「本」という「本」は、フィクション、ノンフィクションとも、ハズレ続きだ。
 原田マハ:『暗幕のゲルニカ』(新潮社)、ゼヴィン:『書店主フィクリーのものがたり』(早川書房)、ジェフリー・サックス:『世界を救う処方箋』(同前。客観的には良書)、井手英策『日本財政』(岩波新書。客観的にはいいのだろうが、インパクトなし)、内田 樹『下流志向』(講談社文庫)、鷲田清一『悲鳴をあげる身体』(PHP新書)。
 とくに、最後の2書は、クズ本だった。

 今、ゆ〜っくり読み進め中の会田雄次『ルネサンスの美術と社会』(創元社)は、著者が生前、テレビなどメディアへの露出が多かった ― ‘与党側’知識人として ― わりには、全く言及されなくなっている本だが、意外に面白い。

読んでいる本…。

 金曜の仕事がなくなったので、木〜日まで4連休になっちゃいました〜。
 ま、8月から10月、私としてはそ〜と〜働いたので、ちょっと休みたく、ちょうどいいかも。

 このところ(今年、というようなスパン)買ったCDを聴いていると、つくづく「いいレコードを買ったなー」という気持ちに包まれ、反比例してオクの出ものの魅力のなさは、節約にはちょうどいい。
 久しぶりに街の書店を見たけれど、ケント・ギルバートの顔ばかり、中には百田 某と並んで写っている表紙なども目につき、変わりなく書店店頭の不快さを味わって、外に出た。

 今までもよくあったが、新刊はもとより、古本屋でも、そして中古レコード店でも、その店の品揃えより自分の部屋の書棚のほうが、比べようもないほど魅力的だと思うことはしょっちゅうだ。

 ではあるが、「活字中毒」の真逆で、「活字拒否症」の私としては、本棚は、ほぼ積ン読本の保管場所でしかない。
 それでも、深夜や車中で、ちょっとずつ読み進めているのが、ひとつはジェフリー・サックスの『世界を救う処方箋』(早川書房)。
 ブックオフのヤフオク店でまとめ買いをした時に、198円で買っている。

 もう1冊は、500頁以上あるので、途中で読まなくなる可能性も高いが、ルーマニアの作家、コンスタンティン・ゲオルギウ(ゲオルギュー。1916-1992。なぜか日本語Wikipediaに項目なし)の『二十五時』(河盛好蔵訳、角川文庫、1967/1974年7版)。
 こっちは、弟の持っていたものを譲りうけたもの。

世界を救う処方箋  二十五時

 サックス先生の本は、これはもうカーター、レーガン時代以降のアメリカの政治と経済が、いかに大企業・金融界、ひいては最富裕層の支配に侵食されていったかについて、データを挙げつつ論じていて、この事実は、すでにいっぱんに、とくにトランプが大統領になる前後からネットでも言われていることで、とくに目新しいことは、実はないように感じる。

 前半が暗部の指摘、後半が「ではどうすべきか」の議論で、全13章のうち、第9章まで読んだところだ。
 中身は至極全うなことばかりで、とりたてて異論はないのだが、邦訳タイトルの「処方箋」という語の選択は、完全にミスリード misleadのように思える。
 本書には、「診断」と「患者へのアドヴァイス」のみあって、「薬の処方箋」は、出されていない。

 異論はない、と書いたけれど、トリヴィアにはなるが、ちょっと「?」なところはないではない。
 著者は、最先端テクノロジーには信頼を置いていて、「悪意のないアンチ科学の一例が、もっとシンプルな暮らしに戻るべきだという幻想である。彼らは有機農業、、地産地消、産業革命以前の知識を重んじる。だが、そんな思い込みは幻想でしかなく、気候変動を否定するようなものだ。産業革命以前の知識では、現在の世界人口の10分の1しか支えられないだろう」(198頁)と言っている。

 この文脈では、これは至当なことなのだが、有機農業や地産地消を全面的に否定することは、また危険でもあろう。
 このテクスト、原文はどうなのだろうと、Googleの中身検索(ググると、出てくる場合がある)で見てみると、どうやら、
 「One well-meaning variant of antiscience is the illusion that we should revert to simpler ways: all-organic farming, local foods, preindustrial knowledge. Yet these are illusions as great as denial of climate change. Preindustrial knowledge could support only around one in ten of the planet's residents today.」
という部分らしい。「p.172」と示されるが、原書のページ番号か。

 「All-organic farming」は、ググっても出てこず、どういう意味かわからないが、いわゆる「完全無農薬栽培」などを指すのかもしれない。
 そして、著者自身、この行文の直後に、「知識への共感とは、専門家にすべてをまかせればよいということではない」と言っている。まさにそのとおりである。
 著者は、もしかすると、遺伝子組み換え食品には賛成するかもしれない。そして、ニュートラルな視点では、これへの「絶対反対」も、もちろん合理的ではない。

 全体としては、本書は、あまりおもしろくない。読んで、得たところ、感じ入ったところは、あまりない。
 ネットのまとめ買いで198円で買ったからおトク感があるが、税込定価2,484円で新本を買っていたら、ちょっとどうだか…ま、こういう本、新刊では買いませんがね。
 ではあるが、この本を知るきっかけになったブロガーさんには感謝、です。

 後半の、今後のアメリカがどうあるべきかについては、アメリカ国民は、明らかにサックスの提案とは逆の選択をした。
 本書原書は2011年に刊行され、今年(2017年)、アメリカ国民はみごとにトランプを選んだのである。
 もちろん、内田 某先生の作物よりは、ずっと読みごたえもあり、何より知的誠実さがある。

 なお、サックスのコトバを紹介するサイトの、こ こで、「世界の貧困問題・環境問題に取り組んできた教授が、トランプ大統領のパリ協定離脱を米政治の企業民主主義化だとして批判している」としているが、ここで「企業民主主義」と訳されている原語は、たぶん「コーポレートクラシー corporatocracy」だろう。

 「Democracy」は、大衆=demosの支配=kratiaであるが、corporatocracyは、「大衆」ではなく「企業 corporation」が「支配」する体制、という意味である。だから、「企業民主主義」という訳は、完全に誤訳だ。
 おもしろいことに ― おもしろくないか… ― この「コーポレートクラシー」も Wikipedia日本語版には、ない。
 そうそう、この語を知ったのは、明らかに本書の恩恵である。

 『二十五時』は、まだ1/5くらいしか読み進んでいないし、読むのがシンドいが、力作だ。
 アンソニー・クイン主演、アンリ・ヴェルヌイユ監督で映画化(1967年)され、カバーにはその画像が使われている。
 BGMには、ショスタコーヴィチが合いそうだ。
 
 このところ、小説類はハズレばかりだったので、これはいい本でよかったが、ブ厚い〜。

前原誠司&バノン

 で‥‥昨日今日、有名になったこの写真。前原誠司とスティーヴ・バノンのツーショット。
 「え? なんで?」とかいうコメも多いそうだけれど、これ、ある意味前原誠司という人の“本性そのまま”、お化粧なしの彼自身なのではないか。
 小池百合子と握手し、小池党と野合する、「そのまんま前原」なのだ。

『下流志向』にレビューを…。

 読んでからもう数ヶ月、懸案だった、内田 樹氏の『下流志向』(講談社文庫)への、Amazonレビューを、投稿した。

下流志向
 読んだ第一印象で批難している人が多く、私もそういう気持ちが、読み進めながらずっとあったのだが、少しばかり同意できるところは同意しつつ、しかし辛口になってしまった(すでに数ヶ所、編集ずみ)。

 入試によく出る論者としては、内田氏よりも、哲学者・鷲田清一氏のほうがよく採用される。
 鷲田氏の『悲鳴をあげる身体』(PHP新書)も読んだ。本書も、『下流志向』同様、『最新国語便覧』(浜島書店)では、著者の代表作とされ、「評論50」に入れられている。
 内田氏以上に、現場で知見を磨く諸論者の説を博引傍証しつつ、しかしご本人の説はというと、そこから何も得られるものがない。
 こっちもそのうちレビューを投じようと思っている。

 内田氏『下流志向』については、こちらの書評が、たいへん参考になる。

 内田氏は、精神を「精心」、矛盾を「無純」と書く女子大生の劣化に呆れている。
 その類いの受験生に日々おつきあいしている身としては、‥‥「評論50」に、丸山真男『日本の思想』とともに、上掲『下流志向』や『悲鳴をあげる身体』が並ぶという事態に、大げさに驚倒することとしよう。

 さてさて、こちらはむしろ評価のほうなのだが、HMVにもレビューを投じた。
 ジャン=フィリップ・コラールらを中心とする、旧・仏EMIのフォーレ室内楽全集が、「室内楽曲集 第1集」、「同 第2集」として、ワーナーから、旧EMIフランス盤と同じジャケット、曲目編成で出ており、特筆すべきは、ピアノ四重奏曲は、第1番、第2番ともEMI海外盤では左右逆転の‘裏焼き’状態であったものが訂正され、東芝EMIのような劣化したマスターをHS2088で無理にリマスターするというのでなく、よいマスターに当たっていると見えて、硬質ながら音質もよいこと。

 ただし、ピアノ四重奏曲第2番の弦楽奏者も、第1番と同じくデュメー(Vn.)、パスキエ(Vla.)、ロデオン(Vc.)としている。第2番は、パレナン四重奏団のメンバーだったはずだ。
 この件もレビューで指摘しておいたが、別途、ワーナーミュージック・ジャパンに問い合わせていたところ、やはり誤りだったので、今後訂正のブックレット、インレイを作成して配布したい、云々とのこと。
 評論家もリスナーも、だれも指摘していないのだ(といって、鬼の首を取ったようにいうまでもないけれど)。

 このアルバム、最近あまり聴いていない。
 今日は、トスカニーニで第九の終楽章(す〜っごい迫力!)、フォルデシュで、シューベルトの D.960のソナタ、ルドルフ・ゼルキン+クーベリックでベートーヴェンの第1協奏曲、などなどを聴きましタ♪

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