このところ買っているCDもけっこうあるのだが、とりあえず今年 “読み了(お)わった”本を。
戦前訳の岩波文庫版・フッサール 『イデーン』。GWくらいに読み終わったかと思っていたが、3月でした。
書いたように、これはほんとうにわからない、現象学そのものの概説書でも読まないとどうしようもない ― いちおうそのために竹田青嗣 『現象学入門』(NHKブックス)は用意してある ―。
その流れで、日本人の書いた哲学書。市川 浩 『精神としての身体』(講談社学術文庫。こちらに、読み進め中、と書いていた。去年の秋…)、これも延々詠んだり途絶えたりだったが、連休くらいに読み終わった。
「身体」(およびその知覚)を軸に、自己認識や世界認識を論じる著者の論述は、この種の本に一般的な難解さを持つが、フッサールの戦前訳から移ると、「お〜、わかりやすい♪」な感覚(錯覚?)を持ってしまうから面白い。
身体感覚の「二重性」。
「私が手で私の足に“さわる”(原書、傍点。以下同)とき、私は私の手が足に“さわる”のを感ずると同時に私の足が手によって“さわられている”ことを感ずる。これに反して医師が私の足にさわるときには、このような二重感覚を持つことはできないであろう。」(88頁)
ここは、医師が私の足にさわることと私が私の足にさわること=対他存在としての身体 については、同じだとするサルトルへの反論だ。
身体を介すると、「能動」と「受動」が同時に起きるのである。
とともに、このような考察は、「主体(=主語)」の問題にも行き着く(142頁くらい)。
この問題は、國分功一郎氏が(古典ギリシャ語の)「中動態」に注目した議論 ― 山口 尚 『日本哲学の最前線』(講談社現代新書)に拠った ― にも通じてゆく。
上引の Amazonレビューが、本書が動物行動学をしきりに援用することをもって「とてもこんなのが哲学とは思えなかった」と言っているけれど、ここが本書の特徴、いわば“言いたいこと”の要でもあり、それだけに「哲学か?」と難ぜられる部分でもあるかもしれない。
が、カッシーラー 『人 間』でも、動物行動学の業績の援用から、人間知性の特徴を説いていて、そうした哲学書は多く、ここはそのまま読んでおくべき部分。もちろんこうした論述は、人間知性の、他の生物の知性に対する優位性を押し出すという文脈を、ある意味自然と構築してしまう。
が! それこそが、1995年以降の哲学・社会学との大きな表情の違いを示す部分でもある。本書の初出は1975年、勁草書房版であり、もとになった論文の初出は1964〜69年である。まさに日本が高度成長を謳歌していた ― 論文から単行化までの間に、大阪万博を挟んでいる!(笑) ― 時代であり、… as No.1 云々とか言っていた時期だ。
次に読んだ (これは今年買って読んだはず) 大澤真幸 『自由という監獄』(岩波現代文庫)は、1998〜2003年に書かれたものに2015年の単行版加筆分を加えたものを2018年に文庫化している。
この時期に、社会は暗転し(するように見え…じつは暗部が噴き出し始めた)、1995年に地下鉄サリン事件、2000年にアメリカ 9.11事件、2011年には福島原発クラッシュが起きた。
もちろんそれだけが原因ではないが、大澤氏の論は、市川論の人間知性に対するある種の肯定から暗転し、読解するのも難解、また著者自身の論の展開自体も、難渋を極める感がある。
書名にあるように、「自由(リベラル)」(の確保?)、「責任」(の追及?)、「公共性」(の担保?)がどうあるべきか、可能か、等々を、そうとう悲観的に考えさせてくれる。
集団の中で「ある人」の存在が認められたり、「秩序」が受容されたりする、そのためには 「第三者の審級」(50頁以降) が機能しなければならない、という言い方にまずつまずくが、「第三者の審級」とは、いわば “上から目線で見るもの” つまり一神教世界においては「神」がそれである。
「審級」は基本的には「第一審」、「二審」というように司法用語だと思っていたけれど、社会学でも使う。英語の instance の訳のようだ。
「第三者の審級」に関する語の説明は、たとえばこちらあたりが、一読わかりやすそうだけれど、末尾に 「回帰された「第三者の審級」とは、仕事を否定しながらラクに楽しく労働をする現代のインフルエンサー、ホリエモンとひろゆきの存在のことだ」 と言っているのは、いささかトンデモすぎる気がする(笑)。
本書の中には、上に触れた市川氏の 『精神としての身体』 と共通する、身体性への言及も見られる。
「求心化作用と遠心化作用との表裏一体性を典型的に示すのが、触覚である。そこでは、触れること ― この身体に能動性があること(求心化作用) ― が、同時に触れられること ― この身体があちら側の能動性にとって対象であること(遠心化作用) ― でもあるからだ。」(24頁)
とはいえ、論の進行とともに、「公共性」の担保の困難さのほうばかり浮かんできて、読むのはシンドくなる。
第3章「〈公共性〉の条件」の末尾では、「ある委員会の決定(のプロセス)」を例として挙げ、結果的に「偶然の産物」たらざるをえない「委員会の決定」の、その「偶有性」を「引き受ける」ことが肝要だという。
それが、「先験的な正義を体現する超越的な「第三者の審級」の空無を体験する方法である。この方法によって決定をもたらす度に、人は、言わば、キリストの死に立ち会うのである。」(307頁)
いささか一神教的文化の範囲内に限定されざるをえない議論とも感じられる。「普遍性・客観性ではなく、偶然性や相互理解の不可能性を前提にする」ことなどは、リチャード・ローティの影響もありそうだ(未考)。
上 3冊は、読み進めが断続していたもの。
もっとも読み応えがあったのは、ピーター・ヴィーレック 『ロマン派からヒトラーへ』(原題: Meta-Politics、紀伊國屋書店)だった。学部学生時代に生協に注文して買ったものの、読み終えたのは40年後、という、“月に7冊も読まない” を通り越して、“7ヶ月に 1冊しか読まない” 不読書家ぶり、バレバレ(爆)。
1941年時点のアメリカからの視点で、ナチス・ドイツの台頭を見つめ、そこへの、ロマン主義思想の影響などを考察したものだ。
当然、リヒァルト・ヴァーグナーの影響への言及は多いが、現実のナチ・イデオローグとしては、フーストン・チェンバレンら、さらにアルフレート・ローゼンベルクへの言及が表てに出てくる。
ローゼンベルクの、狂的な “人種主義” は、驚くべきものだが、ドイツのロマン派が、それに大きく影響した、その「事実」は否みようもないのだけれど、影響の “メカニズム” はどういうものだったのか、それにはあまり触れられていない。
また、同書(原書)には、ヒトラー『わが闘争』の引用なども正確ではないところがある、というよう批 判も見られたり?
※訳書の表記 「フーストン・チェンバレン」のファーストネームは「ヒューストン」と音写するのが一般的だが、Longamanの発音辞典には、「(i) 'hu:stən, ‥‥ ― The Scottish name is (i) …」 とあるので、まんざら間違いとも言えないかもしれない…。
真ん中にあるのは、フランスの、しかし両親ともロシア人(ベラルーシ人)の哲学者・ヴラディミール・ジャンケレヴィッチの、『夜の音楽』(原題: Le Nocturne、シンフォニア刊)。
フランスの思想家の本は読みづらい、という意見も多いようだが、例によって、読みづらい…といって、哲学書ではないので、読み進めるにはそんなには難渋しない。
第三部 「サティと朝」は、サティ論。私は、サティの、アンニュイなだけと思えるピアノ曲には、あまり惹かれないので、どうなんだろう、と思いつつ読んだ。
じつは、サティに関しては、西欧思想の根源(!)と関わって、ちょっと思いつくことがあったので、また別に書こうと思っている。
ジャンケレヴィッチは 「恐らくエリック・サティはストラヴィンスキー同様、「表現が音楽の内在的特性であったことはない」 と考えていたであろう」(126頁)とか、「音楽を聖なる至高の場からひきおろす逆説論理(パラドクソロジー)」(170頁)とか論評している。
最後に、左端の、津島佑子 『ナラ・レポート』(文藝春秋、2004年)。
もうとっくの昔に文庫化されているものだが、刊行後余り経たないうちに単行版で求め、これがまた読み進めづらい本だった。
〈母子〉の感情的結びつきが軸と読めるが、ストーリー=モノガタリ進行をほとんど完全に無視し、読者のアドレナリン・フラッシュのみに訴えかけてゆくような手法で、じつに読んでいて辟易した。
日本の古代・中世の宗教世界を視野に入れ、説話集や説経節に素材を借り、中世史研究の成果も取り入れて書き上げた、というものなのだが‥‥高名な著者には失礼な言い方になるけれども、文芸、小説としては、噴飯物というしかなかった。こんな、しかも長編を読む時間を、人生の残りの時間から持っていかれたのはどう評価しても「快」では、なかった。
一定冊数がまとまったら、ブックオフに売りに持ってゆく候補である。
‥‥というわけで、2023年の収穫ある読書は、市川本、大澤本、ヴィーレックの‥‥あれ、けっきょく 3冊だけだったじゃん(大笑)。
戦前訳の岩波文庫版・フッサール 『イデーン』。GWくらいに読み終わったかと思っていたが、3月でした。
書いたように、これはほんとうにわからない、現象学そのものの概説書でも読まないとどうしようもない ― いちおうそのために竹田青嗣 『現象学入門』(NHKブックス)は用意してある ―。
その流れで、日本人の書いた哲学書。市川 浩 『精神としての身体』(講談社学術文庫。こちらに、読み進め中、と書いていた。去年の秋…)、これも延々詠んだり途絶えたりだったが、連休くらいに読み終わった。
「身体」(およびその知覚)を軸に、自己認識や世界認識を論じる著者の論述は、この種の本に一般的な難解さを持つが、フッサールの戦前訳から移ると、「お〜、わかりやすい♪」な感覚(錯覚?)を持ってしまうから面白い。
身体感覚の「二重性」。
「私が手で私の足に“さわる”(原書、傍点。以下同)とき、私は私の手が足に“さわる”のを感ずると同時に私の足が手によって“さわられている”ことを感ずる。これに反して医師が私の足にさわるときには、このような二重感覚を持つことはできないであろう。」(88頁)
ここは、医師が私の足にさわることと私が私の足にさわること=対他存在としての身体 については、同じだとするサルトルへの反論だ。
身体を介すると、「能動」と「受動」が同時に起きるのである。
とともに、このような考察は、「主体(=主語)」の問題にも行き着く(142頁くらい)。
この問題は、國分功一郎氏が(古典ギリシャ語の)「中動態」に注目した議論 ― 山口 尚 『日本哲学の最前線』(講談社現代新書)に拠った ― にも通じてゆく。
上引の Amazonレビューが、本書が動物行動学をしきりに援用することをもって「とてもこんなのが哲学とは思えなかった」と言っているけれど、ここが本書の特徴、いわば“言いたいこと”の要でもあり、それだけに「哲学か?」と難ぜられる部分でもあるかもしれない。
が、カッシーラー 『人 間』でも、動物行動学の業績の援用から、人間知性の特徴を説いていて、そうした哲学書は多く、ここはそのまま読んでおくべき部分。もちろんこうした論述は、人間知性の、他の生物の知性に対する優位性を押し出すという文脈を、ある意味自然と構築してしまう。
が! それこそが、1995年以降の哲学・社会学との大きな表情の違いを示す部分でもある。本書の初出は1975年、勁草書房版であり、もとになった論文の初出は1964〜69年である。まさに日本が高度成長を謳歌していた ― 論文から単行化までの間に、大阪万博を挟んでいる!(笑) ― 時代であり、… as No.1 云々とか言っていた時期だ。
次に読んだ (これは今年買って読んだはず) 大澤真幸 『自由という監獄』(岩波現代文庫)は、1998〜2003年に書かれたものに2015年の単行版加筆分を加えたものを2018年に文庫化している。
この時期に、社会は暗転し(するように見え…じつは暗部が噴き出し始めた)、1995年に地下鉄サリン事件、2000年にアメリカ 9.11事件、2011年には福島原発クラッシュが起きた。
もちろんそれだけが原因ではないが、大澤氏の論は、市川論の人間知性に対するある種の肯定から暗転し、読解するのも難解、また著者自身の論の展開自体も、難渋を極める感がある。
書名にあるように、「自由(リベラル)」(の確保?)、「責任」(の追及?)、「公共性」(の担保?)がどうあるべきか、可能か、等々を、そうとう悲観的に考えさせてくれる。
集団の中で「ある人」の存在が認められたり、「秩序」が受容されたりする、そのためには 「第三者の審級」(50頁以降) が機能しなければならない、という言い方にまずつまずくが、「第三者の審級」とは、いわば “上から目線で見るもの” つまり一神教世界においては「神」がそれである。
「審級」は基本的には「第一審」、「二審」というように司法用語だと思っていたけれど、社会学でも使う。英語の instance の訳のようだ。
「第三者の審級」に関する語の説明は、たとえばこちらあたりが、一読わかりやすそうだけれど、末尾に 「回帰された「第三者の審級」とは、仕事を否定しながらラクに楽しく労働をする現代のインフルエンサー、ホリエモンとひろゆきの存在のことだ」 と言っているのは、いささかトンデモすぎる気がする(笑)。
本書の中には、上に触れた市川氏の 『精神としての身体』 と共通する、身体性への言及も見られる。
「求心化作用と遠心化作用との表裏一体性を典型的に示すのが、触覚である。そこでは、触れること ― この身体に能動性があること(求心化作用) ― が、同時に触れられること ― この身体があちら側の能動性にとって対象であること(遠心化作用) ― でもあるからだ。」(24頁)
とはいえ、論の進行とともに、「公共性」の担保の困難さのほうばかり浮かんできて、読むのはシンドくなる。
第3章「〈公共性〉の条件」の末尾では、「ある委員会の決定(のプロセス)」を例として挙げ、結果的に「偶然の産物」たらざるをえない「委員会の決定」の、その「偶有性」を「引き受ける」ことが肝要だという。
それが、「先験的な正義を体現する超越的な「第三者の審級」の空無を体験する方法である。この方法によって決定をもたらす度に、人は、言わば、キリストの死に立ち会うのである。」(307頁)
いささか一神教的文化の範囲内に限定されざるをえない議論とも感じられる。「普遍性・客観性ではなく、偶然性や相互理解の不可能性を前提にする」ことなどは、リチャード・ローティの影響もありそうだ(未考)。
上 3冊は、読み進めが断続していたもの。
もっとも読み応えがあったのは、ピーター・ヴィーレック 『ロマン派からヒトラーへ』(原題: Meta-Politics、紀伊國屋書店)だった。学部学生時代に生協に注文して買ったものの、読み終えたのは40年後、という、“月に7冊も読まない” を通り越して、“7ヶ月に 1冊しか読まない” 不読書家ぶり、バレバレ(爆)。
1941年時点のアメリカからの視点で、ナチス・ドイツの台頭を見つめ、そこへの、ロマン主義思想の影響などを考察したものだ。
当然、リヒァルト・ヴァーグナーの影響への言及は多いが、現実のナチ・イデオローグとしては、フーストン・チェンバレンら、さらにアルフレート・ローゼンベルクへの言及が表てに出てくる。
ローゼンベルクの、狂的な “人種主義” は、驚くべきものだが、ドイツのロマン派が、それに大きく影響した、その「事実」は否みようもないのだけれど、影響の “メカニズム” はどういうものだったのか、それにはあまり触れられていない。
また、同書(原書)には、ヒトラー『わが闘争』の引用なども正確ではないところがある、というよう批 判も見られたり?
※訳書の表記 「フーストン・チェンバレン」のファーストネームは「ヒューストン」と音写するのが一般的だが、Longamanの発音辞典には、「(i) 'hu:stən, ‥‥ ― The Scottish name is (i) …」 とあるので、まんざら間違いとも言えないかもしれない…。
真ん中にあるのは、フランスの、しかし両親ともロシア人(ベラルーシ人)の哲学者・ヴラディミール・ジャンケレヴィッチの、『夜の音楽』(原題: Le Nocturne、シンフォニア刊)。
フランスの思想家の本は読みづらい、という意見も多いようだが、例によって、読みづらい…といって、哲学書ではないので、読み進めるにはそんなには難渋しない。
第三部 「サティと朝」は、サティ論。私は、サティの、アンニュイなだけと思えるピアノ曲には、あまり惹かれないので、どうなんだろう、と思いつつ読んだ。
じつは、サティに関しては、西欧思想の根源(!)と関わって、ちょっと思いつくことがあったので、また別に書こうと思っている。
ジャンケレヴィッチは 「恐らくエリック・サティはストラヴィンスキー同様、「表現が音楽の内在的特性であったことはない」 と考えていたであろう」(126頁)とか、「音楽を聖なる至高の場からひきおろす逆説論理(パラドクソロジー)」(170頁)とか論評している。
最後に、左端の、津島佑子 『ナラ・レポート』(文藝春秋、2004年)。
もうとっくの昔に文庫化されているものだが、刊行後余り経たないうちに単行版で求め、これがまた読み進めづらい本だった。
〈母子〉の感情的結びつきが軸と読めるが、ストーリー=モノガタリ進行をほとんど完全に無視し、読者のアドレナリン・フラッシュのみに訴えかけてゆくような手法で、じつに読んでいて辟易した。
日本の古代・中世の宗教世界を視野に入れ、説話集や説経節に素材を借り、中世史研究の成果も取り入れて書き上げた、というものなのだが‥‥高名な著者には失礼な言い方になるけれども、文芸、小説としては、噴飯物というしかなかった。こんな、しかも長編を読む時間を、人生の残りの時間から持っていかれたのはどう評価しても「快」では、なかった。
一定冊数がまとまったら、ブックオフに売りに持ってゆく候補である。
‥‥というわけで、2023年の収穫ある読書は、市川本、大澤本、ヴィーレックの‥‥あれ、けっきょく 3冊だけだったじゃん(大笑)。