小説を1冊、読みました。& 愛読書。

 ‥‥家にいる時は、ネット中毒、とくに ヤフオク! ないし Amazonでの‘CD探し中毒’であります。
 夕刻から夜にかけて家にいられる日にはちょっとオーディオでCDを聴くこともあるが、何といってもネットの比重が大。

 というわけで、転室前には、引っ越したら本を読もうと思っていたものの、読書はいちばんあとまわし。
 要するうに、ものを読むことがめんどうでしようがなく、「活字中毒」の逆人間なのである。

 そして、期待して読み、とりあえず通読しても、読んでいるあいだ、わくわくしたり、「面白い〜」と感じる本は、たいへん少ない。
 先日読んだ原田マハ『暗幕のゲルニカ』は、読み進めている間はなかなか手に汗握る冒険譚、だったのだが、最後の一文を読み終えるや印象が完全にゼロに帰してしまい、もう脳中に存在していない。

『書店主フィクリー』と EMIのCD

 かなり時間がかかり、とぎれとぎれ読んで、やっと読み終わった小説は‥‥ガブリエル・ゼヴィンの『書店主フィクリーのものがたり』(小尾芙佐訳、早川書房、2015年)。

 島の書店主を主人公に置いた物語で、店に棄てて行かれた女の子を育てつつ、主人公とその周囲でさまざまに展開するお話。
 妻を失った主人公が血のつながりもない女の子を育てていくうちに再婚したり、いろいろ展開し、「人間のドラマ」としては『暗幕の‥‥』よりは格段に面白い。
 が、作中、本の話がよく出てきて、本(小説)が読者に「合う」、「合わない」という表現がされるのだが、この伝で言うと、この本は私にはあまり「合わない」ものだった。

 アメリカの現代小説というものに通底するのだろうか、記述のディテールがあっさりしていて、ムダな描写がなく、スピード感をもって進められる。
 これが私にはあまり合わないらしい。

 この作品は、各章の扉に主人公・フィクリーが実在の作品へのレビューを書き込むほか、さまざまな薀蓄がちりばめられているそうで、「訳者はつい「訳注」をつけたくなった」(「訳者あとがき」)が、煩雑になったのでやめた、とある。

 ところで、最初から2番めの扉の銘、「さあ、いとしい人よ、/たがいに敬い愛しあおう、/きみとぼくがいなくなってしまうまえに。/ ― ルミ」の「ルミ」が気になった。注も説明もない。

 「ルミ」ってだれ? 英語圏のネットを調べても、「come on, sweetheart let's adore one another before there is no more of you and me. — RUMI」が出てくるだけである。
 この「ルミ」は、思うに、イスラーム学の権威・井筒俊彦氏によって『ルーミー語録』などの形で紹介されている、イスラーム・スーフィズムの詩人ルーミー(1207〜1273)に違いあるまい。
 このことを突っ込んだ紹介記事、ブログ記事、レビューを、寡聞にしてひとつも見たことがない。これはちょっと異常に感じる。

 Amazonの商品説明にあるとおり、この本は全米図書館員が運営する“Library Reads”に選ばれている
 こういうタイプの“お墨付き”に、書店員の団体による推薦、日本では「本屋大賞」みたいなのがある。
 そういう1冊だった、ジェリー・スピネッリ『スターガール』(理論社。現行は角川文庫)を読んだ時は、もう形容もできないほどのつまらない文体と内容に、辟易したのだった。
 この本は「全米書店員が選ぶ2000年いちばん好きだった小説」とのこと。ええ〜!? さっすがバカ大統領を選ぶ国だけある‥‥ってそのあとにはオバマを選んだのか^^;;。

 私は、活字を追うのはキライでありながら、せっかく読むのなら描写の精緻なものを好む。
 イギリスの児童文学、たとえばアリソン・アトリーの『時の旅人』(岩波少年文庫。初めて読んだのは別の訳で、評論社版)のような。
 ネット上ではいっしょに紹介されることも多い、ジョーン・ロビンソン『思い出のマーニー』(岩波少年文庫、上・下。‘日本化’したアニメは未見)も、ディテールの表現がきわめてていねいだ。
 これは、あの、映画『この世界の片隅に』の描写の精緻さともつながるものだ。
 こういったものを楽しんでしまうと、スピネッリはもとより、今回のゼヴィンの文体も素っ気なさすぎた。

 イギリスの「時間を越えるファンタジー」タイプの児童文学では、他にフィリッパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』(岩波少年文庫)も秀作だ。
 これらは、ユング心理学の河合隼雄氏の本で知ったはずである。ユング系の本はまた別に挙げよう。

 ‥‥CDのほうは、オイストラフのベートーヴェンと同じシリーズの、アルゲリッチ/デュトワによるショパンの協奏曲を。
 これも岡崎氏のリマスターで、元盤のレビューに、残響がやや過多でオケが混濁する、というようなのがあったので、岡崎流のビシッとしたリマスターで輪郭が明瞭な音が聴けるか、と思ったのだが、ピアノの音の、高音の強打鍵が耳にビリッとくる部分が無きにしもあらず。
 送料込み664円だったので、とりあえずこれで?

 ‥‥さて、今まで読んだ本を思い返し、量的にじつに微々たるものであるだけでなく、「楽しく、面白く」読んだ本は、きわめて限られた、そして偏ったものだ。

愛読書^^;

 小説類からいくと、まずはウンベルト・エーコの『薔薇の名前』(上・下、河島英昭訳、東京創元社、1990年)。こ〜っれはすばらしい。が、ストーリーが面白いというものではなく、全篇に満ち満ちたペダントリーに惚れ込んだのだろう。

 これに似た、西欧文化の香りの染み込んだペダントリー…では、やはりジョリ・カルル・ユイスマンスの『さかしま』(澁澤龍彦訳、河出文庫。読んだのは桃源社版)。
 その名訳をものした澁澤さんの創作『高丘親王航海記』(文春文庫)は、日本人の作家が描くとほとんどの場合‘臭く’なってしまう、異国の光景・文物・人物、そして架空の生物の、みごとにファンタスティックなこと!
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「山口昌男」の文庫本

 CDに続いて本も、少しばかりではあるが入れ換え・手放し検討中。

山口昌男文庫本集

 並べてみたのは、文化人類学者・山口昌男氏の、手持ちの文庫本群。
 この中では、今回の単行版からの買い替えは下段左の『知の遠近法』のみ。
 文庫・新書にはほとんど書店でくれる紙カバーをかけているが、はぎとって並べた。なかなかカラフルだ。

 文化人類学者が専門という‘公称’ながら、ものすごい多読・博識により、文化全体の批評家といった趣きがある人だ。
 取扱うテーマ、論述の鋭さと超-博引傍証の資料とにより、すでにカリスマの位置にあるが、このところはさすがに「過去の人」になりつつあるようにも感じる。

 上の6冊の中で、お恥ずかしいが通読しているのは右上の『本の神話学』(中公文庫。文庫につき刊年を記してもあまり意味ないので省略)だけ。学部時代に単行書を入手し、興奮しつつ読み終えた。
 今は、この文庫版も品切れのままらしく、これは残念。

 下段右『道化の民俗学』は、ちくま‘学芸’文庫に入っており、まとまった連載の単行化で、寄せ集めではない。これはちゃんと読まねば、とこれは置いておこう。

 上段左の『道化の宇宙』(講談社文庫)などは版元の性格もあって、すぐ消えて久しい。白水社刊の単行版のほうが古本市場に多いかも。
 この本は、手放してしまおうと思ったのだが、古書価が出ているわけでもないし、拾い読みしていた本だが、「コラージュとしての伝記」の中で、当時続けて出版されたシャネル関係の本への言及があって、手許の‘シャネル本’について記事にしようと思っていた折から、手放せなくなってしまった。

 この本では、著者は他のところ(「ヤポネシアの彼方へ」)で、
 「数年前あるアフリカ人の教育家と話をした折、日本の近代をどう説明するかときかれた。その時、私は失敗に対する狭量、非寛容性、異質なものに対する憎悪と言えるのではないか、と説明した。この糞まじめ主義と結びついた異質なものに対するむき出しの憎悪感情の根は意外に深いようであり…」(146頁)
云々と言っている。

 これだけだと、よく言われていることでもある、といえるかもしれない。山口氏のトレードマークは、この‘糞まじめ主義’を笑い飛ばして転倒させる「道化」であった。
 私自身は、周囲から異質扱いされると同時に、自分の中に、この山口氏のいう「糞まじめ主義」による「非寛容性」がずいぶん巣食っているようにも実感するので、複雑に受け止める。

 山口氏の著書が、若いインテリたちに熱狂的に読まれていった時期が通り過ぎ、見えてくるのは、この山口氏の「道化による引っ繰り返し」が、さして成功を見ないうちに失効してしまった光景のような気がする。

 山口氏は、音楽に関してもいろいろ書いていて、エリック・サティ論(「エリック・サティとその世界」、『道化的世界』所収)なども面白そうだが、サティは実は私には最も無用な作曲家なのである。
 ヒンデミットやミヨーのレコードを集め始めていた時期、山口氏の論に触れられる海外盤は、「手に入れてみたい」憧れだったが、今はほとんど手放している。
 私にはフルトヴェングラーやクレンペラーの‘糞まじめベートーヴェン’のほうがぴったりくるのだ^^;。

 下段左の『知の遠近法』(岩波現代文庫)は、単行版からの置き換え。2章ほど割愛されているが、まあいいだろう。
 この本は、大学の研究者が、初めて野口晴哉の整体に言及した、という点で捨てられないのである。
 『風邪の効用』は、『知の遠近法』の言及で‘整体村’から外に飛び出した感もある。

 『本の神話学』にもどると、この本の随一の功績は、アビ・ワールブルク(ヴァールブルク Aby Warburg)と、その蒐集資料を元に大きな研究を成した‘ヴァールブルク学派’の意義を明らかにしたことだ ― とまあ書く必要もないけれど。
 『本の神話学』中、3つの章がこれに関わる。これらが、その後の日本の、西洋ルネサンス思想史・美術史研究に及ぼした影響は測り知れないのではないか。

 周知ではあるが、このヴァールブルクの一族は、銀行家として活躍した一族で、ちょっと前、この事件だったかで不名誉な報道をされた「UBSウォーバーグ証券」という名を耳にしたけれど、この「ウォーバーグ」がヴァールブルクなのである。

 アビ・ヴァールブルクの著書(講演)が岩波文庫に入ったというのは知らなかった。
 こちらには、その紹介とともに銀行家ヴァールブルクのことも触れてあり、ブロガーの識見の広さが感じられる。

 それによると、現・UBSの源流のひとつにある SGウォーバーグの創立者・シグムンド・ウォーバーグが、銀行家として大成したようだ。
 こちらには、その‘社風’みたいなものを、好悪こもごもながら書いていて、面白い。
 シグムンド・ウォーバーグについては、あちらの Wikiをどうぞ。
 顔写真があるが、漱石ふうに俯いて手を額にあて、‘考える人’のアビの肖像に対し、いかにも実業家。

 ちなみに、この一族からチェリストが出ている。 ジェラルド・ウォーバーグ Gerald Warburgという人だ。
 レイモンド・コーエン Raymond Cohenのヴァイオリン、ノーマン・デル・マー指揮ロイヤル・フィルで、ディーリアスのヴァイオリンとチェロのための協奏曲を、英Pyeレーベルに録音している。

 手許にある、ボッロボロの『Penguin Guide to Bargain Records』(Penguin Books、1966)では、
 「This performance was made possible by the generosity of Gerlad Wauburg, a member of an American banking family as well as a talented player …」(118頁)
とある。「Gerlad Warburg」は‘ママ’で、珍しい名前だなー、と思っていたが、ネット時代になって調べると、Geraldの誤植だったようだ。

 この音源は、Pyeの版権が EMIに買い取られ、バルビローリの録音などがたくさんCD化されたのちもCD化されていない。
 YouTubeのこちらに、2ファイルに分けてアップされている(後半もリンクあり)。
 上記『Penguin Guide』によれば(ネット上にもあるが)、英PyeのLPの番号は、モノ盤 GGC 4073、ステレオ盤 GSGC 14073。

 指揮者ノーマン・デル・マーは、イギリス音楽好きにはよく知られた人で、子息のジョナサン・デル・マーは、あのベーレンライター版ベートーヴェン交響曲全集を校訂した人だ。この版は、私は今のところ、キライ^^。

 では〜。

福永武彦『死の島』を読んだ。

福永武彦 『死の島』 上・下 新潮文庫

 福永武彦の長編小説『死の島』(1971年発表)は、10年以上も前に、当時すでに版元品切だったが、古本屋に頼んでおいて入手し、いちど読み始めたもののすぐ頓挫して、積ん読にしていたのだけれど、3月の震災以後、再び通勤の車中で読み出した。

 このような‘文芸大作’にネタバレ云々はないと思うので、超-簡単にあらすじを言えば、出版社員の青年・相馬 鼎と、彼に関わる、また二人どうしも親密な若い女性、萌木素子、相見綾子の三人が主たる登場人物で、もう一人、男性の登場人物の独白部分が重要ではあるが、ほとんど三人のからみだけで進んでいくといっていい。

 萌木素子が広島での被爆者であり、相馬の書く小説中で、彼女の広島での人間関係に被爆者が関わっていることで、この作品は「原爆文学」のジャンルにも入っている。

 構成はえっらく凝っていて、相馬の視点から、二人の女性が広島で睡眠薬心中を図り、相馬が病院に急行して二人の安否を確認する時点を終結とし、これがメイン・ライン。
 その他に相馬の執筆中の三つの小説、素子の心内の情景を描く「内部」【=ここにのみ象徴化された被爆体験が描かれ、相馬の書く小説よりむしろ優れた創作、という感がある】、もう一人の男性の独白「或る男の〜」が途中から加わる(った、と思う…)。

 相馬の視点から描かれるメイン・ストーリーも、二人の女性の安否確認のために、相馬が鹿児島行き急行「きりしま」に乗ってからは、「○○日前」という、ことの起こる前の日数で表記される章と、車中での章が交錯、つまり2本の時間の進行軸が交錯する、という手の込んだもので、読むのははなはだシンドイ。

 この作品の主テーマは、男女の愛と被爆、さらに自殺が全篇に通低するテーマになっているように思える。
 最後に二人の女性が服薬心中するが、その他にも、相馬の創作中における被爆した反戦運動中の大学生「K」の自殺など、被爆者の中にこのような人々がいたのか無知にしてわからないが、「自殺」は通奏低音のように明滅し、やがて炸裂する終末を迎える。

 …震災以降、家を出る前のニュースでは福島第一原発とそれを取り巻く政治の混乱を見、駅に着いては節電で暗くなった車内でこの作品を少しずつ読み進めることは、不謹慎なことでもあるけれど、なんとも‘合う’のだった。

 最も流布した版もたぶんこの新潮文庫だったろう。上巻460頁、下巻450頁(加賀乙彦氏の解説含め)の、押しも押されもしない「長編」である。
 3月下旬から読み始め、ちょうど広島・長崎の被爆から終戦記念日までの週に読み了えた。

 今年の報道番組やドキュメンタリーは、とくに原発事故と敗戦66年という時機を得て、それなりに気合いの入った報道もないことはない。
 その今年 ― 今再びの放射能被曝と、毎年3万人超続きの自殺者 ― に発表後40年を経て、すでに「文学史」の中の1項目でしかなくなっている小説を読んで、いろいろ感じた。

 素子の心内「内部」でのみ、それも漢字カタカナ交じりで散文詩のように描かれる部分にだけ(象徴化された)「被爆」がある。
 現実の、人体が焼け爛れるありさまを如実に描くことを避けることで、かえって象徴化・結晶化された悲惨を描こうとしたことが伺えるが、これはやはりどう考えても、核爆弾被爆の実態から遠く、それでいて被爆ゆえの「死にとり憑かれる」(作中で「それ」と呼ばれ、暗示される)ことのおぞましさが、描ききれているかというと、私にはそうとは言い切れない。

 福永の子息・池澤夏樹氏の作品は、わずかに斜め読みしたことがあるが、じつに平明な人間・家庭描写だった。『死の島』から被爆と自死と(放蕩も、か)を取り去ると、池澤さんの作風に近づくのかな、とちょっと思った…。

 『死の島』のタイトルは、作中でも言われるとおりベックリンの絵『死の島』である。文庫のカバー絵は上・下巻ともムンクで、上巻のはメロス四重奏団のシューベルト弦楽四重奏曲集(Harmonia mundi France、2CD、売却ずみ)にも使われていた。

 ラフマニノフに、ベックリンから印象を得た交響詩『死の島』があるが、そちらは登場せず、作中で語られる音楽は、シベリウスである。
 相馬の小説中、最も力の入っているものが「トゥオネラの白鳥」であることも、シベリウスの音楽をそこそこ重要な要素としていることがわかるが、シベリウスと「死」とが作のように結びつくかどうかは、読者の感覚によるだろう。

 一読 ― 文字どおり一読のていどで、熟読とはいかない ― しての感想は複雑だ。
 このような作品を忘却の彼方に追いやってしまったわが国の読書人は、ちょっと情けないのではないか、と思うと同時に、劇中劇ならぬ相馬の‘作中小説’で描かれる、戦後広島の反戦地下運動というのが、どうにも薄っぺらく感じられる。こういうものだった、あるいはこういう運動があったのだろうか…。

 アンジェイエフスキ『灰とダイヤモンド』の浅薄な描出といっしょにするのは酷に過ぎるにしても、やはり、この作品の筆致では、核被爆のもたらした尋常ならざる悲劇と、そこに関わる「自死」の深い闇とは、描ききれていない、と感じてしまった。
 核に限らなければ、戦争の本質を剔抉した文学を読みたければ、大岡昇平などのほうが優れているのだろうか…。

本の処分、残った本…。

先週、資源ゴミとして廃棄分 〜 14束に。

ダイニングの本棚は空ッポ。

寝室1室に詰め込み。あ、オーディオ工具が^^;!

 1年前にドッカ〜〜〜ンンと蔵書処分したのだが、「まだこれも、これも仕事の準備で使うかも…」と未練タッラタラ残し過ぎた本が、3部屋に散らばっているのを、1室に集めてみた。これだけでも、3〜4晩を要した。1室の本棚に収まる分量だと、1LDK or 1DK or 最悪1K (T_T)の部屋に持って行ける。

 この中からも、売れるものは抽出、と《日本の古本屋》で相場を当たったり。古書価が1,000円前後で数十件検索されるような書目は、古書店には迷惑なのでできるだけハジく。古書価値はないが見ためがきれいなのは、ブック○フ行き候補。

 残すものの中では、岩波の日本古典文学大系、同新大系、日本思想大系といった叢書類が、最も嵩ばるところで、しかし意外にコンパクトに本棚に収まる。その前列に、相当数の文庫、新書が並んで、奥の本の背が見えなくなるのは、以前同様、仕方がない。いずれ、新書は読んだら捨てよう。

 残っている書目を見ると、とっもかく歴史的評価を受けている‘名著’が多い^^。研究の世界で、私がいた(振りをしていた^^)分野と、私が扱った素材は、古典として歴史的評価の定まったところでない、マイナーなところばかりだった感が強く、その分野で第一線の研究者たちは、“評価の定まった古典のみを「主流」と見る文学史、文化史はオカシイ”という姿勢を、とくに昨今強く押し出している。

 が、皮肉にも、そういう世界から‘下野’し、きわめて限られた<時間>と<読書力>と<読書欲>の中で、何を読んで‘読み応え’を感じるか、読みたいと思うか、と問われる身となると、圧倒的に歴史的に高く評価されてきた名著だけを読みたくなる。

アンジェイェフスキ『灰とダイヤモンド』旺文社文庫 本の整理、処分の中で、未読の本も山ほど棄てたが、「まあ棄てる前にいちど…」と、530頁を超える文庫本、アンジェイェフスキの『灰とダイヤモンド』(川上 洸訳、旺文社文庫[現在は岩波文庫])を通勤の車中に持ち込んだ。

 意外にすいすいと読めて、読み終わった。で、決定的に面白くなかった。とぎれとぎれ、これも電車の中で読んでいるドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(米川正夫訳、岩波文庫)と比べると、人間の心というものを、全然描いていないかと思うほど、浅薄な筆致に感じた。
 収容所内でのナチスへの協力を問われる、重要人物、コセツキ判事。この人物の内面がなんにもわからない。
 これは、こういう手法なのだ、ということかもしれないし、『カラマーゾフ』の饒舌すぎる表現に慣れてしまったから(というほど集中して読んではいない^^;)なのかもしれないが、ポーランドの戦後、という特殊状況への関心がないかぎり、この小説から何らかの感銘を得るということは、私にはほとんど考えられない。
 アンジェイ・ヴァイダ監督になる映画は見ていないが、訳者解説によれば、映画ではコセツキ判事は登場しないそうだ。原作中の稀薄な描写では、映像化の意味はないと考えて登場させなかったのなら、さすがヴァイダだ(この人の映画、見たことないが^^)。

 ことほど左様に、マニアックな(マニアックぶった)興味で買い集めていた本も、読んでみると落胆というケースは多い。山口昌男氏の『本の神話学』(中公文庫)で読みたくなり、古書で探して読んだ、カレン・ブリクセン『ノルダーナイの大洪水』(山室 静訳、新潮社)もそうだった。抜群の物語性を楽しませつつ、最後のどんでん返しで落胆。
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『新版 クラシックCDの名盤』第2刷 〜 当今新書事情

『新版 クラシックCDの名盤』文春新書 昨年11月に、宇野功芳、中野 雄、禿臂篭涯γ『新版 クラシックCDの名盤』(文春新書、2008年7月)を取り上げ、改訂も含めて好ましい本だが、ディスクのデータには問題が多いことを、かなり大きな正誤表を作成して指摘した。

 仕事に行くついでに、通る書店の新書コーナーで同書を確認していたが、なかなか増刷されない。やはり、この不況のご時世、売れないのかなぁ、と思いつつ、そのいっぽうで、増刷の暁には拙^^正誤表(にも誤りは多いだろうし、すでに古くなっているかも)もご利用いただき、少しく補訂されるかも、という‘下心’で待っていたが、'08年7月初刷のまま。
 ところが、秋になって、その書店の大きいほうの店舗を覗いたら、今年4月に第2刷が出ているではないか! はやる気持を抑えてページを繰り、レーベル・データや‥‥もしや巻末にはディスク番号一覧表が‥‥と期待したのだったが、にゃい!(~o~;) ま〜ったく初刷と同じ、リマスター一切ナシの初期盤仕様

 いっや〜、落胆…。

 とはいえ、このところの(ここ四半世紀の?)出版、編集の状況では、しようのないことなのかもしれない。
 このブログで、半年ほど前に、養老孟司氏の『バカの壁』(新潮新書)の、アホウな、そしてあげつらうまでもなさそうな誤謬を取り上げて、実際のところ、今の新書作りが、四半世紀以前と比べると、ちょっと同じモノなのだろうかというくらい品質低下している事情をあげつらった。

 宇野氏ほかによる『クラシックCDの名盤』は、旧版、新版、そして演奏家篇、と、優れた演奏の‘レコード’が作られる背景の文化まで慈しむ態度で、「レコード文化」への愛情を示している ― その示し方への賛否は別として。また、同新書で刊行されている中野 雄氏の『ウィーン・フィル 音と響きの秘密』も、時代の荒波の中で、名音楽家たちがいかにして最良のコンサートを、レコードを提供しようとしてきたかが、共感を持って描かれている。
 そこには、最近の楽壇や、レコード制作のあり方への強烈な批判も見え隠れするするようだが、それを表明するメディアとしての新書が、上記のような制作姿勢を基調とせざるをえない状況にある。これは、もの悲しいイロニーだ

 岩波新書の、松浪信三郎『実存主義』(1962年)、木田 元『現象学』(1970年)、小倉 朗『現代音楽を語る』(同)、井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』(1980年)のような、けっして読みにくくはなく、しかもその分野の基本入門書になりつつ、一般教養書としても高水準な書目は、もはや望めないにしても、ちょっと、である‥‥。

本、売りました。

本棚、空っぽ〜♪ かねて言っていたように、本を売った。本棚4〜5本分に処分する本を選出する作業が、何とも難航していたけれど、あんまりグズグズしていると新学期の仕事も始まり、できなくなってしまう。
 一昨日の日曜が、依頼した古書店主の都合がよいというので、日曜で申しわけなくもあったが、依頼した。
 前夜(12日未明)、飲んで寝ようとテレビをつけたら、また! 《ETV特集》「ひとりと一匹たち 多摩川 河川敷の物語」をやっていた! 最初、以前に見ていない映像だったので、新しく撮った番組かと思ったが、以前のだったので、途中で寝たが‥‥このところ、ものを整理・廃棄したあと、すっきりした気持ちと空虚感を味わいながら、酒を飲んで寝ようとテレビをつけると、この番組の再放送によくぶつかる。

 当日は午前中ということで、4時間ほど寝て起きる。午前11時から整理・査定の作業が始まり、午後2時に搬出終了。主人とともに来訪の若い店員は、令息と思しい。対応も丁寧だったし、気になった買取額 ― だれに話しても‘今日び、二束三文だよ’と言われる ― は、支出額からするともちろん大きく低減するが、決して‘二束三文’ではない評価だった。何しろ、この不景気なご時世に、現ナマを支払って買い取るのである。リスクも大きいことは売る側の素人にもわかる。主人の提示した額には、ほぼもう‘御の字’と言ってよかった。

 こちらは、腕力はないし、本を搬出する順序もあるので、手は出さず、任せた。どんどん出ていく。搬出が終わり、双方、丁重に礼を申し述べ、本屋さんが帰ったあと、がらーんと空いた本棚が残った。残っている本も本箱5本分ほどあるので、これがまだ引っ越しのネックになりそうだぁ〜。
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TO BE or TO DO 〜続篇

鈴木秀子『愛と癒しのコミュニオン』文春新書 前に鈴木秀子さんの『愛と癒しのコミュニオン』(文春新書)のことを書いた。その中の「天使になって、自分を観察する」(89頁)は、できるだけそういうふうに‘後ろから自分を見て’いようと思って生活するようにしている ― まだなんにもいいことは起こらないが^^。

 同書の提案の中心は、「ドゥーイング=行為・業績による人の価値」以前に「ビーイング=その人の存在自体の価値がまず認められること」が大切だ、ということだった。
 その例え話として、‘病気で寝たきりの生活を送る30歳の男性、Mさん’の話が語られている(185頁以下) ― 自身の境遇を嘆くばかりのMさんは、コミュニオンの通信講座を受講し、寂しかった幼少時に、病気になると母親が傍にいてくれたことを思い出し、“自分は寝たきりになることを選んだのだ”と覚る。それから、世間で苦労の絶えない旧友たちが次々にMさんの部屋を訪れて悩みを話し、Mさんに聴いてもらっては癒され、Mさんは彼らの話を聴くことが使命だったのだ、と自身の価値を感じるようになった、というお話。
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ちょっと昔の新書…

奥村 宏『会社本位主義は崩れるか』岩波新書、1992年 続いて、本の処理ばなし。本を処分するためにパラパラと眺める作業を続けて、古い新書群が、最近のものに比べて水準が高いという感を強くしているが、奥村 宏『会社本位主義は崩れるか』(岩波新書、1992年)というのが、出てきた。あとのほうに栞が挟んであったので、そこまでは読んだらしい。

 著者はジャーナリストから経済学者になった方で、私はこの方面には全く知識がないが、私自身が「会社社会」に入ることができなかったコンプレックスから、たぶんこの本を買ったのだろう。わが国の「会社主義社会」とその中での企業のあり方を批判した一書で(というくらいしか私には紹介の能力がない)、戦前の財閥から、その解体と解体の意義、それ以後のその空洞化…等々を述べていて、「会社に富が集中」(150頁見出し)する日本社会の病理を指摘する。

 昨今のグローバル化以前に、日本の企業社会は国際的な資本主義のルールに則らない部分を含み持ちつつ繁栄してきたことはよく言われるものの、日々のニュース番組では株価の上下や企業個々の問題にばかりしか視点が届かない。
 奥村氏のこの本は、そうとう以前に日本の企業社会の問題を指摘しているが、それらについて、何の改善もないまま、むしろますます会社に富が集中する方向に突き進んだあげく、“未曽有の金融危機”に至っている。
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バカの壁…

 ‥‥この1ヶ月、本・書類・コピー類の廃棄にフウフウいっている。1週間に資源ゴミの紙類収集は1回だけなので、それに向けて、といって結局はその直前、深夜から未明にかけて括って出す。もう45束は出した。今日は、まだカバーなど付いている文庫など30点ほど、ブッ○オフに持ち込み、750円♪ 売りに行く、のではなく廃棄の1方法という感じだ。

 本の廃棄を進めて実感してきたのは、「新書」のレヴェルがずいぶん‥‥ここ、10年くらいで? 変わったことだ。(例によって^^;)積ん読の新書の山を眺めていて、岩波新書に、しっかりした内容(そうな^^)訳書がいろいろ‥‥ J.B.モラル『中世の刻印』(1972年)、ジャック・ルゴフ『中世の知識人』('77年)、A.クリエジェル『ユーロコミュニズム』('78年)、他多数。'70年代の新書出版の水準ってこんなだったんだ、と、まだ読んでいないのに感心。で、まずい。棄てられないではないか(‥;)。

養老孟司『バカの壁』新潮新書、2003年 では、最近の新書から、ブッ○オフで105円で買った2003年刊の、養老孟司氏の『バカの壁』(新潮新書)。どうも、たぶん全部は読んでいないみたい^^。出た時、一種‘バカ’を書名に付けるブームがあって、“イヤな語感だぁ”と思ったが…なんで買ったのかナ。
 この中に、英語の冠詞に説き及んで、ソシュールの「シニフィアン(能記)」と「シニフィエ(所記)」に触れられている:

 「ソシュールによると「言葉が意味しているもの」(シニフィアン)と、「言葉によって意味されるもの」(シニフィエ)、という風にそれぞれが説明されています。この表現はわかったようなわからないような物言いです。実際、ソシュールは難解だとされています。
 が、これまでの説明の流れで言えば、「意味しているもの」は頭の中のリンゴで、「意味されるもの」は本当に机の上にあるリンゴだと考えればよい。」
(76頁)

 上記の養老氏による「シニフィアン」と「シニフィエ」の説明は、わかりやすいが、すでにネット上でも指摘されている(ここの指摘に付け加えるものなどない。参考にしたことを深謝したい)ことであり、このサイトが指摘されているとおり、筒井康隆氏の『文学部唯野教授』(初出は1987=89年)中、唯野教授が「記号論」で行なう講義内容で、一度モンダイになったことなのだそうだ。
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TO BE or TO DO

 ‥‥私的にこうキツい状況だと、逃避癖の強い私^^;は、‘スピリチュアル系’に行きたくなりがちだ。― で、ブッ○オフでうろついていると、鈴木秀子『愛と癒しのコミュニオン』(文春新書、1999年)が目に入り、パラパラとめくってみると、基本的にはコミュニケーション理論、カウンセリング分野の書物なのだが、もうちょっとスピリチュアルな‘癒し’本として興味をそそられて、買った。

鈴木秀子『愛と癒しのコミュニオン』 人間関係のトラブルに対処する方法を論じた書物としては、ジャンポルスキー『やすらぎ療法(セラピー)』(春秋社)を読んだことがあり、ひたすら‘許す’ことを説く論調にすさまじい違和感を感じた。その後、実際にトラブルに遭遇したとき「もういちど謙虚に再読して、試してみよう」と思って読み、できるだけ書いてあることを試したつもりだが、全然効きめ^^がなかった。
 ジャンポルスキーの論は、むしろ自立・自己宣伝・責任の過度な重視に明け暮れるアメリカ社会の病根を露呈するもので、アメリカの現状にこそ効果を持つが、日本のように、社会生活では自己主張や怒りは押さえつける精神風土では、同じ方法を薦めるのは危険ですらある、と思った。

 しかし、鈴木さんの該書は、そのような、単調な「許し」を説かず、冷静な「聞く」、「受け容れる」態度を基本とするところに深いものを感じる。著者の説く「アクティブ・リスニング」は、話し手に対する価値判断をひとまずすべて棚上げして聞く、ことがミソなのだが、第2章「自分に聞く」で、自分の感じている実感を、それが自分であると受け止める「自己一致」へのプロセスのひとつとして「天使になって、自分を観察する」ことをあげていて、映画『ベルリン・天使の詩』の天使のまなざしで自分を見守ることを説いている。
 さて、これが実践できるかどうかは‘?’だ。とりあえず、自分の後頭部の数十センチ上あたりから‘守護霊’が私を見るように? 自分を見ているつもりになろうかな。それがどんな変化をもたらすのかわからないけれど^^。
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