‥‥任意加入の申し込みをしたら、もう納付書が! 来年3月までの分の、一括前納は、今月中が期限。
それに、今月末から国保保険料もかかってくる。一昨年よりわずかながら高収入だったので、地方税(← こっちもある)の倍くらいの額が賦課されている。
ということで、取りあえず納められる国保保険料額 ― 残額の予定使途の主だったものは、歯のブリッジ再構築にかかる1〜2万円? ― として、20諭吉ほどを納付〜〜‥‥ふへ〜。
ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集、弦楽四重奏曲全集を最後に、しばらくCD漁りはストップしとります。もう、要らん。
この2週ほどは午後の仕事はなく、夜だけ。
なのですが、12日(木)は、賃貸の水槽洗浄のため、午後から断水するので、それなら、と、早めに出かけて、映画を観よう、となった。
“あの”是枝裕和監督『万引き家族』です(ちょっと-笑?)。
“ネトウヨ”の手合いが、「反日監督、反日映画」とかホザきまくっている、カンヌ映画祭ナントカ賞受賞作である。
ウヨもカンヌも、どっちでもいいのだが、作品そのものは、映画通から評価が高いようだ。
まず、タイトル『万引き家族』が、フェイク、もといフェイントである。これ、登場するやつらは「家族」ではないのだ。
ストーリーを、ちょっとだけにせよ書くのは億劫なので、知りたい方は
こちら などを、「自己責任」で読んでいただく、こととする。
感想は‥‥はっきり文章化できる、たとえば「感動」は、ない。が「感銘」は、ある。ヒトとヒトとの関係性の、ある突出した部分を描く、その印象は、もう圧倒的なものだ。
それに感動できたり共感できたり、というのにはそうとう距離があるが、
それゆえ 映画芸術としてのクオリティは、ヒジョーに高く、そのために、
多くの、映画に慣れない鑑賞者は、不満を漏らすに違いないだろう と容易に推測できる。
この「家族」の「父」の収入源=万引き。
この点で“反日叩き”のウヨ言説が、「これは日本ではなく、韓国の家族を描いている」などと言っている。
じつは、私はこの言説は、発話者たちの意図と全然異なるところで、たいへん面白いものだと思っている 。
いや実際、中国や韓国で、このように犯罪を半-生業としている家族や集団は、そこそこいるのではないか、と思わないでもないのだ。
超々-格差拡大を続ける中国を始め、各国で『万引き家族』が、吹き替えや字幕つきで流布しまくったら、「あ、こいつら、いるいる」みたいな反応が、アジア諸国その他で起こらないでもないんじゃないか、と思いもするのである。
そうなった時こそ、この作品のメッセージが、最も普遍的な次元で享受されることになる。
事ほど左様に、この映画は、舞台を明らかに東京都内に設定しながら、
じつは アジアの、あるいは中東やラテン・アメリカのどこかの国であっても全くかまわないような「作り」になっているのだ。
これは監督が意図したことか、そうでないのかすら、判然しないのだが、そこがまた秀逸なところで、これが「カンヌ狙い」だったのかもしれない。
ストーリーは、「万引き」その他、この集団の行なう脱法行為が少年・祥太の「決断」によって白日の下に晒され、警察が踏み込む、という展開になる。
「悪いことしてたら、やっぱりツカまるぞ」ということなのだが、そういう勧善懲悪の主張でも、これまたないのである。
「おばあちゃん」の年金を当てにし、亡くなっても届けないで年金の振込みを受け続けるという、実際にあった事件に、監督は触発されたことがいちおう公表されているようだ。
こういうケースも、今後、若者の貧困化と社会の高齢化、かつ年金制度の整備がなされてゆくにしたがって、中国などでも頻繁に起きてきそうな気がする。
そんなこんなの、いささかお下劣な小市民の、いっぽうで、目をそむけたくなるほど暑苦しい「絆」感。こういう視点から、「人間を問うた」作品だ、と言ったらいいだろうか。
描かれる“家族”の持つ「絆」は、私には暑苦しすぎて、こういう人間関係の中には、いたくない。
が、こういう極端な関係が、「関係」の本質の一端を浮かび上がらせる。
作中、親に虐待されて寒中に屋外にいた少女。
彼女の両親は、夫婦の間にも愛がないが、どちらかというと「チャンとした」社会人のかっこうで描かれている。
現実社会で子どもを虐待する両親は、多くの場合、経済的貧困の境遇にある。だがそちらのほうはこの映画は描かない。
「祥太」も、実の家庭では虐待を受けていた可能性が高い‥‥ように想像させる。
ということは、この(ほとんど犯罪を媒介として集まった)「疑似家族」は、さまざまなのものから「逃げて」来た人びとの作った避難所 refugeだ、ということになる。
そういうものを「場」として、そこで思考実験のような、ファンタジーのような、なんとも形容しがたい、しかしきわめて印象的な一篇を創り出している。
とりあえず、予告編を下に:
VIDEO
この映画の上映と受賞に関して、映画がというより、是枝監督がウヨ系のクズ言説に晒されているのは、単純に糖分が流れ出ればアリが群れだすようなもので、あまり重要でもない。
この手合い ― だいたい、映画は観ていないみたいだ^^ ― の無知性・無思考が典型的に露呈しているのは言うまでもないし、そもそも「映画」というものがなんであるのかわかっていない。
その主な火種は、韓国のメディア『中央日報』へのインタビュー発言であるようだ。インタビューは
こちら で読める。
注目された部分は、
−−経済不況が日本をどのように変えたか。
「共同体文化が崩壊して家族が崩壊している。多様性を受け入れるほど成熟しておらず、ますます地域主義に傾倒していって、残ったのは国粋主義だけだった。日本が歴史を認めない根っこがここにある。アジア近隣諸国に申し訳ない気持ちだ。日本もドイツのように謝らなければならない。だが、同じ政権がずっと執権することによって私たちは多くの希望を失っている」
の部分だろう。
発言の実態をどれだけ反映しているか懸念はあるし、是枝監督は、インタビュアーが韓国メディアであることを意識しすぎた感も読み取れる。
「日本は経済不況で階層間の両極化が進んだ。政府は貧困層を助ける代わりに失敗者として烙印を押し、貧困を個人の責任として処理している。映画の中の家族がその代表的な例だ」
とも言っている。こちらのほうは、監督の思うところと受け取れる。
しかし、「映画の中の家族」は、ここに監督が、「政府に、失敗者としての烙印を押された」具体例、などというようなものを、はるかに超える多義性を含意している、と感じた。
加えて、是枝さんという人は、映画に描かれた類いの、また、日本で失われてきたという類いの「絆」を、ずいぶん過大評価しているように感じた。
この映画は、監督や演者、製作スタッフの思いを超えたところにまで、意味の深さが至っているのかもしれない、と思った。
さて ― 映画館のジジ・ババ割引額:1,100円というのは、1,800円で観てきた(あんまり観ないのだが)者には、ありがたいけれど、いささか安すぎる。
何度も言うが、通常1,500円、シニア 1,200円くらいになれば、もうちょっと公平感はあるし、入場者も増えるだろうにねえ。