PV、また急上昇! …しかし。

 拙ブログへのアクセス=PVを、けっこう気にしつつ見ているのだが、このところまた異様に増えている。

PV急増

 今週の月、火は、2,000を超えるという、これもう異常。

 で‥‥何かあるのか? と探ってみる‥‥無料サービスだと使えるツールが限られるが、とりあえず「リンク元」を見てみる。と…

リンク元

 検索サイトも多いけれど、拙ブログの http://bluegourd.jugem.jp/?eid=729 が圧倒的な上位を占める。
 ふむ〜‥‥NHKか…。

 しかし、そんなにNHKの請求のことを検索する人が多いのだろうか?
 たしかに、Googleで、「NHK 返送 封筒」で 検索すると、拙ブログの当該記事が上位に出てくる‥‥のではあるが…。

 いやはや…;;。

 当該記事では、そして私のNHK受信料に対するスタンスは、「受信料を払わない視聴」には反対なので、受信料支払いの反対派 or 不要派とは相容れない。
 加えて、番組のクオリティ面でも、最近、よそ様のブログから得る情報では、《NHKスペシャル》などで、秀作が制作・放映されているようで、NHKの番組作りには賛意を感じるものなのである。

 それでも、視聴している人を含む多くの人が、やはり受信料を払いたくないというのが事実なのかもしれない。

 ともあれ、拙記事を閲覧される方それぞれの意図・意思は異なるだろうし、せいぜい「へぇ〜、NHKの営業の姿勢に疑問を感じている人は多いんだな」と思うのみである。

 『朝日新聞』について、「インテリが作ってヤクザが売る新聞」という言い方を聞いたことがある。
 NHKにもそういう、制作サイドと「売る現場」との齟齬が素地となって定着しているのかもしれない。

 ※今、この記事をアップするためにブログにログインして、13日(水)のPVを見たら、2,275でした^^。
  私の書いたものが見たい、読みたいというPV増ではなく、NHKという大きな存在ゆえだとわかると、あんまり嬉しくないねぇ〜。

《この世界の片隅に》再見。

 《メアリと魔女の花》を観てから、ちょっとばかり‘映画づいて’しまい、2週間後に《この世界の片隅に》の2度めを観た。

この世界の片隅に

 《この世界…》は、複数回映画館に足を運んだ人がそうとういるようで、観るたびに新しい発見と感動が云々という話も多い。
 9月にディスクが発売されるということで、さすがに長く続いた延長上映も8月末で終了するところが多いようだ。

 朝の上映は行けないので、夜やっているところ、というと、新百合ヶ丘の川崎市アートセンター内の、アルテリオ映像館というところ。
 駅を出てそう遠くないところにある。この地は、日本映画大学などという大学もあって、‘そういう’雰囲気である。

 110席ほどの定員制で、ここの音響設備は、メイヤーサウンドというところのものを使っている。悪くなかったけれど、スピーカーの設置様態からか、音の広がりはあまりない。

 当日は午後8時から上映、80席弱は埋まっていたようだった。年齢・条件に関わりなく、1,000円均一。

 いちど観ているので、展開は当然わかった上で、であるが、やはりほんとうに観応えがある。といって、‘涙が出てくる’ということはない‥‥これは私がそういう人間だからだ。
 2回観た価値はあった、というのが実感だけれど、DVDまで買うところまではいかない。むしろ、劇場での「すずさん」との出会いを、胸に沈めておこう、という感じ…。

 この作品の、まず第一の成功の元は、原作、だろう。稀有な原作と、片渕監督の恐るべき才能と執念とが、なにかある種超常的な力に結びあわされて、この世に現われ出た、というようなものとしか言いようがない。

 以下の YouTube動画(正確には音声)は、TBSラジオの《伊集院光とらじおと》の記録と思われるが‥‥


 前半のほうに、奇跡的に原作者とコンタクトがスムーズに取れたことが語られる。
 伊集院 光という人は、ラジオだと語りが大げさすぎて興ざめすることが多いのだが、この回は、相手が相手(!)であるせいか、地に足がついて説得力がある。
 この音声で、21分45秒以下あたりのところから一緒に仕事をした宮崎 駿の名前が出てくる。
 伊集院:「実際、ま、ざっくりですけど、どういう人ですか、宮崎 駿…。」 片渕:「え? めんどくさい」(笑) (23分くらい)
 伊集院:「高畑(勲)監督はどうですか?」 片渕:「高畑さんもめどくさいんですよ」(笑) (24分35秒くらい)
 の会話は、もうよく知られているらしいが、面白い。

 その「めんどくさい」宮崎 駿と高畑 勲両監督は、《風立ちぬ》(宮崎)と《かぐや姫の物語》(高畑)を、同時公開を期して制作し ― けっきょく高畑側の遅れから別途公開となったらしい‥‥この辺は、私はほとんど興味がなくリアルタイムには何も押さえていない。

 が、その制作過程の、宮崎サイドを詳細に、というか執拗に追ったドキュメンタリー映画:《夢と狂気の王国》(砂田麻美監督、川上量生[ドワンゴ]プロデューサー(← 実験的動画で宮崎監督を怒らせたヒト。))が、違法っぽいがスペイン語字幕でアップされた動画で ― 制作者には申しわけないが ― 観た:


 音声はモノラルの貧弱なものになっているが、画面は、スタジオの内部、周辺など、何ともいえないほど美しい箇所がいっぱいある‥‥といって、これをDVDを買って観ようとまでは思わないけれど、宮崎 駿・ドキュメントとして、非常に秀逸だ。

 この動画は、テレビではまず放映できないような、政権批判と取れる場面までネグレクトせずに収めている。

 宮崎氏は、改憲反対であることを明言しているものとみえ、「「風立ちぬ」宮崎駿監督の反日妄想を嗤う」(産経新聞サイト。『月刊正論』所載の文章とのこと)なんていう、吐き気のする‥‥いや吐き気もしないようなクソ言説の類いがカビのように生えてきている。

 筆者の三品なる人物は、終わりのほうに、宮崎氏が自身の父の思い出を語ったことばに対し、「こんな童心を今に留めているからこそ数々の名作を生み出せるのかもしれないが、どうもこの種の人々の特有の青臭さが鼻につく。それは「体験なき者の横暴」である」と結んでいる。
 《夢と狂気の王国》には、父に対する、もっと複雑な印象が語られている。三品某なる人物のほうこそ、「体験なき者の横暴」を無慙にブチまけて憚らない。
 加えて、こういう手合いが「数々の名作を生み出せるのかもしれないが…」などと言っているのにも違和感ただならぬものがある‥‥これはまあ、一般的に、この種の糞言説の生産者は、こういうところは‘世間の評価に従属的’ということだろう。

 ‥‥余談に入りすぎた。が…私は個人的に、宮崎 駿の「護憲論」に、あまりシンパシーは感じない。
 それから、私自身は宮崎アニメのファンでは、基本的に、ない。
 すばらしかったと記憶するのは、《耳をすませば》と《千と千尋の神隠し》だけで、それも、VHSを廃棄した今、DVDで買いなおそうとは思っていない。

 それにしても、なぜ《この世界の片隅に》にはこんなに説得力、存在感があるのか。
 原作者と監督の、何かに結び合わされていったがごとき出会い、主演声優・のん さんをはじめとする適役声優の集合など、目に見えない‘何か’が地下水のような流れを作っていった‥‥。
 意識的・意志的に「反戦」を描こうとしたのではなく、死者たちの思いと生者たち ― クラウドファンディングの有志の人びともその底流だ ― の思いとが、どこかで重なり合い、融和して大河のような「流れ」を作っていった‥‥ような気がする。

 先の戦争において落命した我が国の人びとは230万を超え、その多くは餓死と病死だったのである。
 国家の無計画・無責任な戦争遂行のもたらした、こうした餓死者と病死者の「思い」が、生存して辛酸をなめた人びとの思いとともに、《この世界の片隅に》の制作過程と、映像に、沁みこんでいるように感じないでもない。
 それは、けっして声高でもイデオロギッシュでもない。「人が死ねば土に還る」、その土にまた、草が芽生えて花が咲く、ように‥‥。

 戦争体験を語ることに、とても消極的な人は少なくなく、それが「聞き取り」、「証言採取」を行なう人びとの作業を難しくしているということをよく聞くが、《この世界の片隅に》では、すずさんが目の前で、「その時」の姿を見せてくれる。

 「過去にもどる」タイプの、いわゆるタイム・ファンタジーは英国の児童文学の一ジャンルをなしていて、フィリパ・ピアス:『トムは真夜中の庭で』やジョーン・ロビンソン:『思い出のマーニー』はその分野の名作だ。
 読んだ方にしかわからない言い方になるけれど、『トムは真夜中の庭で』において、トムがハティに、『思い出のマーニー』において、アンナがマーニーに会うように、《この世界の片隅に》では、私たちは「すずさん」に会うことができるのだ。

 ‥‥長くなったので、米林版《思い出のマーニー》については、また別記事にて…。

《メアリと魔女の花》…雑感

 数週間前、立川でちょっとだけの仕事のあと、ちょうど1時間おいて上映開始だったので、立川の映画館は初めてだったが、立川シネマシティという館で映画を観た。
 お題は‥‥『メアリと魔女の花』。
 そうそう、去年還暦を越えたので、1,100円で入場できる。ちょっと割引きが大きすぎるようにも感じないでもない。というより、通常の1,800円が高過ぎる。

 これは、yositakaさん(ネコパパさん、がほんとう?)のブログにおける紹介で知り、私の感想はかなり yositakaさんのレビューに影響されている面、否めないことを書き添えて、私の雑感を‥‥。

メアリと魔女の花


 あらすじは、yositakaさんのブログにも引用される、Wikipediaでどうぞ。

 自分によいところを見つけられない女の子が、偶然見つけた魔法の花の影響で、魔法の世界に行って、最初大歓迎されるも、正体を知られると姿を変えられそうになり、知人の少年が巻き込まれ、彼を助けようと大活劇‥‥。

 スタジオ・ジブリ‘出身’の監督ということでジブリ‘ゆずり’の精細な絵、とくに風景画像の美しさ、精細さがまずは期待される。
 さすがに、美しい、のではあるが、イギリス‘ふう’のロケーション ― 明らかにイギリスの田園地帯を想定… ― の、まさにイギリス風庭園の、その植物の描写は、意外に粗雑に見えた。
 末尾には植物の実写と思しい絵が使われていたと記憶し、これなどは私には興ざめだった。

 描くのが困難といわれる、水の立体的描写に挑戦‥‥とも言われているが、‥‥


 魔法大学エンドアの、マンブルチューク校長のイメージが噴水から立体で飛び出す絵。立体感が、意外にない。これは技術的にしようがないのかもしれないけれど。

 その他、何しろ、子ども向けの冒険大活劇アニメなので、細かいところを云々する気持ちは起きず、まあ、楽しんだといえば、十分楽しんだのであるから、それでよいともいえる。

 ストーリーの重要点は、何といってもエンドア大学の首脳たちの‘大’魔法プロジェクトが、「暴走」すること、それゆえ、ヒロインが、最後、「魔法なんか要らない!」といって、秘密の書『呪文の神髄』の中から、「全ての魔法を解く呪文」を選んで使う、というところにある。

 すでに多くのレヴューに言われるように、これは明らかに原発事故への批判であり、科学暴走への警鐘だ、ということは明らかで、「魔法なんか要らない!」は、それらへの強い拒絶の意思表明だ。
 そこに収斂してゆくストーリー ― 原作は未読で、気にはなる ― では、「魔女の花・夜間飛行」が放つ、妖しいブルーの光の豊かなふくらみは、ただ「封印すべき危険なもの」としてのみ描かれる。

 レヴューを拝読した yositakaさんが言われたとおり、ここでは「魔法の多義性」は捨象されてしまっている。
 これはどうなんだろう‥‥と不満には思うのだが、短いアニメで、この辺を描き込むのは、無理だった、と解しておくしかないだろう…。

 最近、デュトワ/モントリオール響のCDで、デュカスの交響詩『魔法使いの弟子』を買い戻した。
 この楽曲は、ゲーテの原詩に基づき、魔法使いの未熟な弟子が、水汲みの仕事を箒にやらせようと呪文をかけるも、魔法を解く呪文を知らず、箒が汲んだ水で洪水になりそうになったところに師匠がもどり、事なきをえる、というストーリーを音楽化したもの。

 何といったらいいか‥‥《メアリと魔女の花》は、『魔法使いの弟子』を、逆ヴァージョンにした‥‥のでもなく、「師匠」と「弟子」だけが逆になったヴァージョン、なのである。
 こう考えると、ちょっとは面白いか。

 ゲーテ=デュカスのストーリーでは、「未熟者が奥義を使おうとしてはならない」ことの教訓であり、一般にはわかりやすい。
 《メアリと魔女の花》では、魔法の専門家で、達人であるはずの博士と校長が魔法を暴走させ、それを、「魔法素人」のヒロインが止める。

 そして「全ての魔法を解く呪文」‥‥これが原作にあったのなら、それはますます興味深い。

 話が飛ぶ。
 整体の創始者・野口晴哉は、相手を金縛りにする術を心得ていて、妻・昭子(この人は、近衛文麿の長女。つまり近衛秀麿の姪)が「私も修行して出来るようになりたい」というと、野口は「修行なんて無駄なことさ。みんなお互いに暗示し合って、相手を金縛りにしているじゃないか、自分もまた自分を金縛りにしているじゃないか。人間はもっと自由な筈なんだ」と答えた、という(参考ページ)。
 この話はなかなか有名な話なのである(整体を知っている人たちの間でだけ、か;;)。

 つまり、野口先生の整体への姿勢は、「不要な思い込み=(潜在意識的)自己暗示を解く」ことにひとつの主眼があった、わけだ。

 ‥‥とまあ、こういうことを連想すると興は尽きないのだけれど、こういうふうに「アタマ」で考えないとあまり面白くない、というのは、映画としては甚だよろしくない。
 声優陣は豪華だが、庭師ゼベディの声、遠藤憲一さんは、これは全く合っていない。
 別記事にしようと思うが、《思い出のマーニー》で「大岩さん」(原作のペグおじさん)役の寺島 進さんのほうが、合うのかな、と危惧したけれど、こっちはドンピシャのはまりだっただけに、残念。

 今回、還暦を超えていたので、じじぃ割引=シニア料金=1,100円で観られた。これが1,800円払って観ていたら、不満感はより強かっただろう。

 さて‥‥原作はどんなものなのか、という興味は募る。
 メアリ・スチュアートという、伝説的なスコットランド女王の名を、偶然にも結婚によって得てしまった作家が、どんな筆致で描いているのか。
 《思い出のマーニー》が「読んでから観る」になった(DVD、観ました^^)のと反対に、「観てから読む」か‥‥あ、これ、一時 KADOKAWA映画の宣伝キャッチだったな〜^^;;。

 末筆ながら、映画をご紹介くださった yositakaさんには厚く御礼を申し上げ、かつ冷やっこいレヴューになったこと、少々お詫びいたしまス^^;;。

 ※このあと、《この世界の片隅に》の2度めを観、DVDで《思い出のマーニー》も観ましたが、ちょっと長くなるので、また別記事ででも‥‥。

[付記]
 この映画で、魔法を暴走させてしまう「デクター・デイ」は、英語表記だと Doctor Dee である。
 だとすると、この人物の名は、まさにメアリ女王の時代に実在し、今日のルネサンス研究が解明してきた、占星術師 ドクター・ジョン・ディーにあやかっている。

 イギリスの児童向けファンタジーの秀作、A.アトリー:『時の旅人』には、ヒロインが、過去の人びとにとっての「未来」を知っているため、「エリザベス女王の占い師、ディー博士を訪ねたことがあるのか? 」と詰問される場面がある(岩波少年文庫版、158頁)。

 澁澤龍彦『黒魔術の手帖』では、第1章冒頭に、この人物が死者を呼び寄せている場面の挿絵が掲出される。澁澤の表記は「ジョン・デイ」であるが、映画ではこれを採った…のか?

8月に買ったディスク。

 8月終了〜‥‥ ;;。
 今月は24日出勤、9月末には今の仕事先では一番多い振込み額になりそうである。
 すでに地方税、国保保険料は全額納付している。といって、オデオやディスク、書籍などにもうあまり出費してもしようがないし、まとまった貯金ができるような収入額にもならないから、10月くらいに、国民年金保険料の免除分の、復活納付を、年金事務所に相談してみようと思う。

 夏期中も、週末にはハンで押したように○痢‥‥‘夏期仕事納め’の30日には、水曜なのに下○^^;;。これでアタマの緊張をほぐしている感、見えみえ。

 この、けっこう忙しい夏、意外に、映画を2度観た。 
 ひとつは、お邪魔しているブログ記事から知った、《メアリと魔女の花》。
 これについてちょっと書こうと思っているが、いろいろあって、いっぽう時間とともに物語の細部は忘れていくし、でなかなかアップできない。
 そうしているうちに、《この世界の片隅に》をもう一度観たくなり、都内首都圏の夜の上映で観た。そのために、仕事が終わってから新百合ヶ丘まで行ったり。

 なかなか書けそうにないので、ここ3〜4日で買った中古CDを。

8月に買ったCD。

 今回はフランスを中心に、ラテン系を。
 イベールの管弦楽曲集は、佐渡 裕/ラムルー管の Naxos盤を持っていて、悪くないと感じていたが、もう数年、一度もCDプレーヤーにかかっていない。
 佐渡さんの演奏は、丁寧だが、リズムとフレージングにいささか軽みが不足する‥‥大野和士さんにも、そういう面を感じたことがあるし、評でも読む‥‥ところがあって、かつデュカスの『魔法使いの弟子』なんかも欲しく、デュトワの『フレンチ・コンサート』を買った。別番号でかつて持っていた盤だ。

 このアルバムのイベールは『喜遊曲』だけなので、『寄港地』は、マルティノンの仏EMI盤にしようと、探すと、HMVが中古を持っていた。
 HMVのサイトで買えば、2枚以上買っても送料は378円 ― 今回は、送料無料になる2,500円までは買うものがない ― なので、アルゲリッチ+バレンボイム/パリ管の、ファリャ『スペインの庭の夜』も一緒に注文。

 ジュリーニ/ベルリン・フィルによるフランクの交響曲も。これも番号の違うディスクをかつて持っていて、生活費に変わっていた。

 佐渡のイベールは、リマスターが耳に合わないグールドの『平均律』や、テンシュテットの『千人の交響曲』ライヴ(LPO)、アッカルド+ジュリーニのベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲などといっしょに、ユニオンに売ってしまった。

 テンシュテットのライヴの『千人』は、歌手たちの絶叫 ― それも倍音が歪っぽく、聴きづらい ― をはじめ、部屋で聴くにはよほどのテンシュテット・ファンでないとつらいものがあるし、録音が、悪い。

 それから、超-久しぶりのDVD購入。《思い出のマーニー》。原作は、アトリーの『時の旅人』などと同じように、酒が入ったあとに終末部を読み返して、未明に泣いたりする(泣けます!)本だけれど、アニメ映画のほうは《メアリと魔女の花》の米林監督によるもので、劇場で観そびれているので、買ってしまった(ヤフオク! 出品のブックオフで、セル版)。

領収書1枚に、宅配便。

 ふひ〜‥‥8月後半は週休2日にいたしておりやす〜~ ~ ;。シンドい。

 ‥‥もう1ヶ月前のことになるけれど、7月に HMVで中古ばかり、送料無料になる2,500円以上買った際、1点がCD-Rだったと間違いなく思われたので返品し、その際、領収納品書を同梱するように、ということだったので、代わりに返品を削除した領収納品書を送ってほしい、紙の領収書の送付が不可なら、ウェブ上にページを作ってもらってもOK、と連絡した。

 すると「郵送しました」のメールが来たあと、全く届かない。1週間経って、「いかがなりましたでしょう?」と聞いてみたら、「佐川の宅配便で発送ずみ」とのこと。
 その翌日の月曜日、仕事で外出中に不在配達票が入っていた。
 そこから、電話の自動受付で、在宅する次の日曜の午後2〜4時を指定しておいた。

 で、当の日曜の当該時間帯に、全く来ない。
 HMVからのメールにあった問い合わせ番号で検索すると、不在配達票が入った月曜までの約1週間、ほぼ毎日ずっと「持ち戻り」記録になっていた。そして、この日の欄に「配達中」とも出ていない。

 時間帯の終わりに営業所に電話すると、ドライバーさんが持ち出してもいなかったようで、つまり電話受付は全く伝わっていなかった。
 話では「人員が不足し、ぎりぎりでして」ということだった。
 これは、このところ伝わる宅配ドライバーさんのブラック的激務からも、わかる!

 当日は、もう無理だということで、次週の日曜を指定し、届いた。
 結果、営業所に20日近く滞留するという、珍しい荷物になったわけだ。

宅配で領収書

 中身は、納品兼領収書1枚 ― 書類、たった1枚、である。これに受領印を求める発送元

 受領印を要する宅配便の配達が、これほど混んでいる現状で、書類1枚の発送にも受領印を取る、という HMVの姿勢のほうに不審を覚えた。
 CD-Rであるというだけで返品を申し出た私を、かなりなクレーマー的顧客だと判断して、「届いてない!」というようなクレームが来ないよう、確実に受領印の取れる形式を選んだ‥‥のかもしれない。

 「お急ぎ便」、「当日配達」…のような、超高速配達サービスの、あまりの増加が、とんでもない様相を惹き起こしているようだ。

 HMVには、事情をフォームから伝えたが、「郵送しました」という連絡がまずかった、とだけ解釈したようで、「テンプレートを改めました」という返事だった。
 再度、「テンプレートの問題ではなく、書類発送の合理性をお考えになったほうが…」という文言を送っておいた。
 それぞれの企業が、自社内がうまく動き、免責を確保できるように考え、サービス最末端の宅配ドライバーにしわよせが行く。「戦争」における一兵卒、に似ている。

高校野球の開会式…。

 夏の高校野球、甲子園での開会式で、プラカードを持つ役の女子高校生が、熱中症的症状で倒れ、それに対し、周囲の高校生たちが救護には動かず、高野連会長ののスピーチも途切れることなく続いた。

 YouTubeの埋め込みはしないが、こちらに収録・掲出された開会式全映像のうち、34分20秒くらいから、八田英二・高野連会長の挨拶スピーチが始まり、37分36秒くらいに、女の子が、倒れている(動画のキャプションにショートカットのリンクあり)。

開会式で昏倒

 これについて、周囲の高校生たちがほとんど動揺せずに直立の姿勢を取りつづけ、高野連会長もスピーチに一切中段を加えなかったこと、またこの事実を主催者である朝日新聞を始め、メディアが取り上げなかったことを、高校野球の中にある非人間性の表れだと非難するネット言説がちょっと‘炎上’している。

 開会式の行進先導・プラカード持ちは、伝統的に西宮市立西宮高校の女生徒が担当することになっているらしい‥‥‥いや、ホントウは私は記憶にあるはずなのだが ― というのは、ここの出身なので ― 忘れている。
 市立西宮高校は、地元では「いちにし」という。県立西宮高校を「けんにし」といって区別している‥‥今もたぶんそうであるはずだ。

 もちろん、不登校で中学に5年も在学した私は、内申の点で公立校は先ず無縁だったので、関係はない。

 そんなところで、なんやかや、ちょっとフクザツな心境で、このニュースを考えておりまス;;。
 女生徒の昏倒にもまったく同ぜず、延々(!)とスピーチを続けた高野連会長・八田英二氏。← 全然シラン人ではあるが、同志社大の理事長・総長や学長を務めた経済学者、とのこと。
 この大学がまた、個人的に縁のある大学なんである‥‥よい思い出はほとんどないけれど。
 まいったな〜^^;;。

 この「光景」自体には、やはり異常なものを感じてしまう。「一糸乱れず」、「微動だにしない」という「集団行動」の教育文化が、戦後ず〜っと涵養され続けてきた流れの中で、こういう「光景」が出来するのはきわめて当然のことであり、そしてそれは戦前の日本や今の北朝鮮をダイレクトに連想させる。

 このアクシデントに関しては、周囲の生徒の動きが非人間的、非常識であるという非難は、ただちには当てはめがたいと思う。
 女生徒が倒れた直後、男性が介護しているし、他にも介護者が数名、俊敏に駆け寄っている。

 つまり、開会式の運営は、こういった事態を予測して、このようなことが起きればすぐに対処できるように準備されており、市立西宮高の女生徒はそれを知っていて、うしろにいる高校球児たちも、すぐさま介護されたのを見て、動くまでもないと判断した、と解釈することは不自然ではないだろうと思うし、だとするとこのこと自体はそう大きな、非難されなくてはならない問題ではないと思うのだが…。

 むしろ、同じ調子で事態を非難したり揶揄したりする「同一歩調言説」がネット上を駆け巡ったことのほうに、「民衆の共通歩調ベクトル」みたいなものを感じる。

 ではあるが、こういう場面以外にもあまた報告されている、高校野球のムチャな練習のあり方など、こういうものを下支えしている「教育カルチャー」には、どうしようもなく危険で、不快なものを感じてしまう。

 八田サンのスピーチ、‘同志社的’であろうとガンバったのか、英語をふんだんに盛り込み、最後は「We're always behind you!」と結ぶ‥‥けっこういいこと言ってんだけどなぁ、の感あり。← だって、倒れた女生徒のうしろ ― behind you! ― に、ちゃんとすぐ介護者が来たじゃないですか!(笑。あ、笑っちゃいかんか…)

 女生徒の昏倒に、まったくスピーチを中断もアドリブ変更もしなかった‥‥のは、ま、慣れていないんですよ、こういう人は、こういう場面に。
 けれども、そういう「姿勢」そのものが、「個人」を基本的に大切にしない文化、社会の基調を、よく示している。

 よく言われる、人権を尊び、リベラルを標榜する朝日新聞社が、高校野球のような人権軽視の生じるイヴェントを主催しているのはおかしい、とか、そういう新聞社に人権を云々する資格はないという批判。

 そのとおりだと思うけれど、朝日新聞が、「リベラルが正しい」と認識してその路線を採っている、とは言い難い。
 「リベラルで行くぞ」と「上」が指示すればリベラル、「高校野球はすばらしい、で行くぞ」であれば高校野球、なのである。
 朝日新聞と産経新聞が、ちゃんと「シェア」できるビジネス。

 この国の「○○」は、「○○がよい or 正しい」の「判断」で主唱・遂行されるわけではなく、「オレたちは○○で行くぞ」という「指示」のもとに進められるのである。
 護憲も改憲も、ウヨクもサヨクも、開発もエコも、バブルも「モッタイナイ」も、そういう次第なのです。

 ‥‥まじめな話、八田氏のスピーチとはうらはらに、倒れた生徒のすぐ「behind you」の子たちは、全く動かなかった。
 この子たちを責めるのは酷だし、当事者や周囲の生徒たちがいじめでも受けるようなことは、それこそ許されるべきことではない。

 が、八田氏の「美辞麗句」は、このように機能(or 逆機能 or 非機能)するものであり、そのような社会と文化を、営々として戦後70年、築き上げてきたという自覚くらいは持っておかねばならない。

PV急上昇! いったい何が?

 7月終わりから今月冒頭にかけて、拙ブログのPVが、異様に増えている。

7月末PV

8月あたまPV


 オデオ系の記事をほとんどアップしなくなって、だいたい一日のPV(単純積算らしい。JUGEMの)は400〜600台になっていたところ、7月の終わり、28日くらいから急に1,000を超え、7月31日は1,441となっている。

 何が‘お客さま’を呼んでいるんだろう? 都議選関係の、やや「荒れた」記事は、7月半ばには削除している。
 ふむ〜‥‥「ブラック部活」、かな^^?

 あ、この記事も消すかもしれません。恥ずかしいので;;。

戸襖のすべりが‥‥そうしたら!

 いっやもう、久しぶりの日曜日、起きられないほどぐったり。
 1週間ぶりにずいぶんとCDを ― 今日はヨッフム/バイエルン放送響でブルックナー:5番(全集から)、他 ― 聴き、夜を迎えておりまス。

 せっま〜い1DK‥‥というより「1K」の、キッチンと和室を隔てる戸襖は、管理会社からの発注で、なかなか重みのある、いいものを入れてくれていて、これを閉めると音もかなり遮蔽されるので、音楽を聴く時には閉じることにしている。
 つまり、寝る時と、スピーカーでの音楽鑑賞時に、閉じる。

 設置後しばらくすると、滑りが悪くなったので、敷居の溝にロウソクをコスりつけるとスムーズになる。
 が、しばらくするとまた重くなり、昨日あたり、敷居の横っちょに、小さく薄くて、白い樹脂片が落ちていた。

 ははぁ〜ん、なるほど、これは滑りをよくするために襖の底に接着したプラ片が落ちたんだな、道理で滑りが重いはずだ、と、戸襖をはずして確認してみた。

戸襖の底のプラ片

 戸襖にくっついていたものが2枚、落ちていたものが1枚‥‥‥あれ? 戸襖1枚に2枚、プラ片がくっついているはずなのに、1枚足りない。

 と見ると、いつも見ない奥のほうに落ちていた。↓

落ちていたプラ片

 キタナいところをお見せします;;。

 どうも、入れてくれた職人さん、このプラ片を、両面テープで接着していたようなのだ。
 そりゃこの重い戸襖の下のプラ片を、両面テープでくっつけたら、毎日の摩擦ストレスで、早晩剥がれることは当りまえでしょう!

 こういうプラ片。

プラ片

 で、しっかりくっついていた1枚を除き、あとは剥がして、計3枚のプラ片を、百均で買っていた‘強力瞬間接着剤’↓

瞬間接着剤

 下に見えてるのは ゆうちょ銀行のティッシュですぅ〜^^。
 で、接着。しょっちゅう開閉するほうは、早くに剥がれ、敷居の塗料がべったりくっついているので、そこをちょっとはずして接着。
 すぐ敷居に入れると剥がれる可能性が高いので、洗濯をしている間キッチンに寝かせておいて、すんでから実装〜。

接着


 戸襖は立派でていねいなつくりなのだが、こういう細かいところで、住居の内装の職人さん、とくに賃貸の管理会社を顧客にしているところにそういう感触が強いのだが、“全然職人らしくない”お粗末な作業をすることがある。

 いや、こっちがロウをしょっちゅう塗らなかったのが悪いので、こういうものは両面テープで済ますのが常道なのだろうか?

 作業だけでなく、素材のイノヴェーションも10年ならぬ30年ひと昔の感がある。
 水道の栓の「パッキン」のゴムであるが、あれ、すぐ硬化して水漏れが始まりやすいのである。

 とまれ、滑走促進プラ片(って言うのか?^^)全4枚を貼りなおし、戸襖はスムーズに走るようになりました! (^o^;)ノ。

ブラック企業、ブラック部活。

 あ〜‥‥しんど〜‥‥。やっと日曜日〜。
 などとのんびりしたことを言っていられるのは、低収入に甘んじる非正規受験産業従事者たる愚生の閑散生活(← でもないんですよ^^)ゆえかな〜。

 TBSラジオ《荻上チキの Session-22》で、週末、“ブラック部活”をやっていた

 以前から、中学・高校の専任教員がいかに多忙で勤務時間が長く、残業代なしの超長時間労働に晒されているかが大きな社会問題になっているが、「部活」という局面で、教員も生徒も長時間拘束されすぎ、かつハラスメント的接触を受ける、ということが看過できないほどになっている、という。

 NHK《クローズアップ現代》のコピー:



 まだ消されずに残っているアップロードから、重複部(こういう映像コピーのアップロードは、同じ映像を繰り返すものが多い)のないものをひとつ。

 名大・内田 良さんは、いかにも外見がチャラい研究者であるが、上記《Session-22》にも出演していて、この問題を積極的に訴えている。
 映像中、為末 大さんが、「これは社会の縮図のようなもの」と言っている点には同感だが、それが「社会では、少し前の価値観だ」という点は、賛同しない。これは逆で、最近の「ブラック企業」全盛とリンクして、「ブラックな社会で人材になりうる人間を育てる」という流れの中に位置しているのである。

 「ブラック」の名称の、親玉、「ブラック企業」。

 YouTubeに、2015年と2016年の、《ブラック企業大賞 ノミネート発表》がアップされていた。




 さいきん名を馳せた電通をはじめ、セブンイレブン、引越社、佐川急便、明光義塾、ABCマート、日本郵便、等々。

 こういう形で‘告発’されなくとも、日本の企業における、正社員のムチャクチャな長時間労働や、絶対服従的転勤など、高度成長期には、それらの対価となる賃金上昇や福利厚生で‘相殺’されてきた部分が、ストレートに、このように「働かないと/働かせないと」立ちゆかなくなっている‥‥のだろうか?

 あんまり「他の先進国」とか「欧米」とかを比較材料に出してもしようがない気もするけれど、これほど人を働かせて、なお経済が停滞し続け、勤労者の生活がつらくなる日本という国。そんな国の経営者陣というのは、そうでない国の経営者より、そうとう暗愚であることは否みようがないのではないか。

 45年前、中学校で不登校になった時‥‥はじめに入った中学(市立)では部活は必修扱いで、体育教師は「できれば運動部に入れ」と言っていた。
 転居で、1年生の2学期には少し‘山の手’の中学(市立)に転校の予定だったためか、はじめの中学でどこかに入部した記憶がない。

 転校後の中学は、部活は「入ったほうがよいが、自由」という校風だったため、入らないまま、2年生になって不登校に陥り、部活は経験しないまま、不登校留年の2年を含めて計5年在学した。
 転居後の中学では、秋の体育大会(体育祭?)のマスゲームの練習に毎日夕暮れまで、体育教師の怒鳴り声につき合わされた。
 当時は、男子中学生の頭髪は、丸刈り強制だったことは言うを俟たない。

 今、ブラック部活、ブラック教員労働、ブラック・バイトなどの淵源が、こういった45〜50年前の「学校」にあったことが、再度はっきりとわかる。
 言い換えれば、45年後の日本がこうなっていることは、当時、全部わかっていた。あの時、「もうアカンやん」だったのである。
 それはハッキリ感じていた。同じ中学の不登校仲間(?)とも、そんな話をしていた記憶がある。

 部活における超長時間拘束は、「生徒に非行をする時間を与えない」ことだろう、とも言われる。
 一時期の「ゆとり教育」が学力低下を招いた、のはそうなのだろう。

 そりゃあたりまえである。「余暇」に何をしたらよいか知らぬ大人が、何をしたらよいか、年少者に教えられる、あるいは手本を示せるわけがない。
 「丸刈り強制」も、わかる。どんな髪型がおしゃれで、見る人に不快感を与えないか知らぬ大人が、若い連中に髪型を自由にさせられるわけがない。
 欧米の個人尊重や「民主主義」的プロセスは、ハリウッド俳優の話す英語のごとく、カッコよく耳に心地よいが、中身チンプンカンプン。

 あの時代に「蒔いた種」、ちゃんと花咲き、実ってます。

アタマの緊張、などなど。

 ‥‥しんどい〜。
 さすがに週6日、仕事に出て行き、だだぁ〜っとシャベっているとしんどい。
 いや、仕事より、「毎日出てゆく」ことがしんどいのである。

 このところ摂取していた、オルニチン入りの味噌汁と、雑穀米。どうもお腹によくないような感触なので、オルニチン入り味噌汁の、オルニチンの入った顆粒スープはすべて廃棄し、味噌だけ利用することとした。
 雑穀は、先週はずっとやめていて、昨夜の夕飯にだけ、ちょっと混ぜた。

 1週間、下痢はしなかったが、今日、《サマーフェスティバル》(要するに‘よさこい’である)をちょっと覗いて、おねえさんの筋肉質な腕でも見よっかな〜と、買物もたいしてないのに出て行き、帰るとお腹が! 「腹痛」というものではないけれど、帰宅後トイレに駆け込むこと5回。

 野口晴哉先生の「整体」では、「頭の緊張を緩めるために下痢をする」参考になる記事)ということを言う。
 私の場合、夜間の冷えや、寝る前の飲酒(かなり量は減っている)も原因していようけれど、やはり一週間のアタマの緊張 ― そんなに使ってねえじゃん、という勿かれ^^! ― をほぐす目的らしい、と自覚している。

 といって、一昨年の転居前の4階の旧室では、生活はずっと困窮していたのに、お腹の具合はずっとよく、食欲もずっとあって、体重は48kg以上になっていた。
 この辺のところは、やはり、転居自体のストレスがそうとうあって、まだ残っているのに加えて、何より新室の狭さのストレスだろうと感じる。

 帰宅すると、「自分がいられる/寝られるスペースのみ、あとは、無し」という住居面積に、「ウッ!」と来る圧迫感というか、逼塞感を感じる。
 アタマでは「必要なだけのスペースで、合理的だし、管理もしやすいはず」とわかっていても、感覚が不快を感じるのである。

 たぶん、「自分が、最低限の生活しかできない状態に追い込まれた」という自覚は、あまりないままに転居し、「(頭で)こりゃなかなか快適だ」と思っている、というより「思おうとしている」ことに、身体が正直に反応・反逆している、ような感じ。

 私は「おとなしい」人間で、「自罰傾向」が強く、それゆえ身体症状を起こしやすくて学校もキツかった、というのが、カウンセラーの見解でもあったと思うし、ある時期までの自分の自己評価でもあったのだが、実際は180度逆であり、他罰性が非常に強いのである。

 あまりにも「他罰傾向」が強すぎ、恐ろしくて「自罰」を装ってきたのである。
 世に「瞬間湯沸かし器」と称される、‘キレやすい人間’がいるけれど、私の場合、「瞬間沸かし器」で、キレ度が、アブナ過ぎる。

 さきほども、スーパーで、レジで並んでいた時に、前で清算中の子連れの主婦が、「ちょっと○○も…」と言って、買い忘れの商品を取りに、場を離れた。その間、レジ係の人も、次の番の私も、待っている。
 さほど長時間ではないけれど、いつもどってくるかわからない。たぶん20〜40秒ほどでもどって来たと思うが、レジ係にも私にも、「すみません」のひと言もなく、ゆ〜っくりお戻り。

 こういう場で、私の心中に殺意 もとい、激怒の核分裂が起きる^^。
 そのおばさんの清算が終わるやいなや、彼女が前に進むのとほとんど同時に、私はこれみよがしに、いささか暴力的に手を伸ばしてレジのトレイに千円札を叩きつけた。
 清算がすみ、彼女の隣の袋詰めテーブルに、買ったものの入ったカゴを、わざと大きな音を立てて「バシャッ!」と置き、買物を袋詰めして、彼女がカゴを、すでに重ねられているカゴに重ねた直後、これまた大きな音を立てて「バシャッ!」と重ねた。

 いっや〜、小せえなぁ〜、と我ながら反省の段、であるが、こういうこと、しょっちゅうなのである。アブナい、アブナい。
 こういうようなことで、安い外食チェーンのメシがまずくなることも多いし、仕事先で緊張が生じると、職を失いかねない ― もちろんそれゆえ、自分の中に緊張が起きても、最大限、安全に処理しようと努めるけれど、それだからますます“週末にはハデに下痢”となるのだろう、とも思う。

 藤原智美『暴走老人!』(文藝春秋)、まだ積ん読っす〜。

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